「兼㝎初期銘についての疑問」

                            近藤邦治

はじめに

平成29年11月、岐阜県博物館の中島守館長(当時)より特別展「兼定 刀都・関の名工」(期間:平成
30年4月28日~6月24日)にかかる監修協力依頼があり、地元刀剣会を代表して全面的な協力をお伝え
するとともに、謹んで拝命した。
しかしその時点で開催までの準備期間は半年を切っており、数少ない出陳刀候補に紛れ込んでいた偽物
の排除を指摘すると、たとえ偽物であってもそれを大切にしてきた文化を尊重したいと高言し、頑なに
応じない学芸員と連携する難しさに思いもよらず直面する。
さらに実務協議で示された展示企画案は、末関の兼定を初代から三代まで揃え、それ以降を会津兼定に
繋いだ歴代兼定の紹介を繰り広げたいという噴飯ものであった。
確かに末関兼定にはノサダこと兼㝎を二代とする通説が古くからあり、いわゆる後代による関での活動
も永禄七年(1564)までは確認されている。
しかし巷間にいう初代あるいは後代とされているものが、学術的調査に裏付けされた成果であるかとい
えば甚だ心許なく、系譜そのものが研究を要するものや、その孫引きを都合よく援用しているだけであ
り、実証に基づく系列的な代別整理へと到達したものを見ない。
そのため関係向けへ事前配付された開催趣旨書を除いて、展示と図録の編集にはそれらの俗説を一切追
認しないとの軌道修正を図ったが、兼㝎のほぼ定説化されている二代説についても、出陳刀を介して一
考の余地があることを確認し、そこから派生する初期銘の謎に思い至った。
このような知見とは程遠い内容であるが、特別展の関わりから見えてきた疑問を展開しつつ、問題提起
としてみたい。


兼㝎二代説への疑問

まず初代兼定に関する代表的な古書籍の記述を紹介すると
〇『古今銘盡』(萬治四年 編者不詳):信濃守是也 禁中にて菊を被下…
〇『古刀銘盡大全』(寛政三年 仰木伊織):初代の記載は無く、兼㝎の項に、兼常子文亀頃 和泉守
ト云 㝎ノ字ヲ之定ト…
〇『本朝鍛冶考』(寛政七年 鎌田魚妙):長享兼長子 菊ノ御紋蒙勅許任信濃守
〇『古今鍛冶備考』(文政年間 山田浅右衛門):和泉守藤原‥と細鑚尓て定の字を真尓切 信濃守枝菊…
〇『古刀銘集録』(文政十一年 田中清房):和泉守藤原ト細鑚ニテ定ノ字真切也
以上のように信濃守または和泉守に任じられていたという説や、あるいは兼常という説も交錯するが、
これらの受領銘を刻した初代作と特定される事例は未だ確認されておらず、こと初代に関する記述だけ
は何れも信頼に足りる資料とは云い難い。
斯様な状態にありながら、兼㝎は二代という位置づけだけが信じられ定着しているが、「兼定 刀都・
関の名工」展に出陳された室町中期作と、さらに一時代上の時代相にある資料を経眼したことにより、
果たして二代とするのが相応なのか一層の疑念を募らせることになった。
その一つが資料1、小太刀 銘「濃州関住人兼定/享徳亖年二月日(1455)」であるが、この年紀
は確認されているノサダ銘現存最古の年紀、明應九年(1500)を四十五年も遡るものであり、兼㝎
より先時代の作であることは言うに及ばない。
ただし『刀剣美術 第250号』に掲載された鈴木卓夫氏の論文、「和泉守兼㝎の初期銘と初代兼定に
ついて」を参酌すれば、兼㝎の楷書(初期)銘作最古年紀を文明亖年(1472)としており、これを
起点とする再計算では十七年までに短縮され、二世代間の合間として捉えることが出来る。
従って本作は、古伝書に著されている受領銘を確認できない憾みはあるが、時代的には師もしくは親の
作例と比定しても支障あるとは思えない。
ところが資料2に挙げる刀 銘「兼定」は、銘の位置こそ指し表になっているが、その作域は應永期の
善定兼吉に見紛うばかりであり、控え目に見ても室町中期まで下るとは思えず、文明四年との隔たりは
四十年を超すものであろう。
この二刀は作風、銘振りにおいて直接結びつくものが認められず、よって同一鍛冶作ではないことは明
白であり、僅か一例とはいうものの兼㝎二代説を固執する限り説明に窮するものに違いない。


書体変更の疑問

「兼定 刀都・関の名工」展に出陳された多くの兼㝎刀を通観してみたところ、「㝎」の鏨運びに時間
推移にともなう変化があることを再認識させられた。
それらにはウ冠の下「之」を「うへ」の如くにしたものや、「少へ」のように見えるものなど多様な崩
し方があり、年紀順に並べた比較から二字銘無年紀作の時代推定に役立てることができたが、本稿の目
的はそれらの紹介になく、「定」を「㝎」とした根本の理由に迫ってみたい。
周知の通り兼㝎は「濃州関住」の住人銘から、後に「和泉守」受領銘へと転換をしているが、その前の
文明四年(1472)から明應後期(1500頃)にかけて、ヒキサダ(楷書)を刻したとされているこ
とは前述のとおりである。
そうした事例として「兼定 刀都・関の名工」展に出陳したヒキサダ銘作の中にも兼㝎の初期銘と伝わ
っていたものが数点あったが、それらの中で唯一兼㝎同人と確実視されたものに資料3の刀、銘「濃州
関住兼定作」があった。
これが兼㝎初期銘作とされる所以は、鈴木卓夫氏の論文中に「ノサダ銘の特徴として、「(図一)に示
す通り、「兼」の字の第二画目と三画目のタガネが連れて同じ方向に追い、九画目のタガネが下から上
へ打ち上げ、さらに十、十一、十二画目のタガネが二画目、三画目のタガネ同様一列に尻を追いかける
ように切るところに大きな特徴がある。また「定」の字については、第一画目のタガネが多少の角度の
差はあっても下から左上へ打ち上げるという癖が見いだせることもそうである」と考察されている指摘
点を満たしていることにある。
さらに指し裏、鷹羽勝ちの桧垣下から太い勝手下りの縞模様が浮き出ているが、
この下地鑢も出陳刀中の幾つかに見受けられた特徴であり、今後ノサダの手癖
(希に他の美濃鍛冶にも出る)の一つと見て差し支えなく思われるほか、精良で
明るい地鉄を鍛え、匂いの深い冴えた刃文を焼く技倆も凡工の及ぶところでは無い。
このように卓越した手腕を揮いながら、二十七・八年にわたり刻してきたヒキサダ銘を棄て、ノサダ銘
に改めたことになるが、そうさせた理由は知るよしもなく、如何なる経緯か不思議でならない。
凡そ末関鍛冶が改銘するようなことは、背後に庇護者がいて偏諱を授かるなどの契機があり、そうでな
ければ徒に当人作という証を失うだけで、それまで築いてきた定評実績を初期化させる危うさを伴うの
ではないだろうか。
もちろん後年には美濃国守護代斉藤氏の側近くに伺候したことは知られているが、この時期にそれと証
するものは見当たらず、仮に偏諱としても頭字に頂くのが当時の作法である。
また、通常複数の同銘鍛冶がいる場合に、別人作と紛れないための手段として、例えば源左衛門尉信國
の鏡文字に刻した「國」や、末備前ならば俗名を添えることで識別される工夫をするが、そうしたこと
に末関諸工は比較的無頓着であり、強いて云うなら兼㝎の書体変更だけが特別で、しかも突如として個
性の主張に目覚めたとしなければならない。


仮定と新解釈

一般的に「㝎」は楷書体「定」の崩し字、つまり行書体との思い込みがあり、もう一方に正字体「定」
の略体でもあることは気に留められていない。
この略字とは比較的複雑な字画の漢字の点画を省略したり、より簡単な字形に変えたりしてできた簡略
な字体をいうが、俗とともに現代の当用漢字に紛れたものも多い。
略字や俗字が屋号、名乗りなどに見られるのは、名家から分枝した家に多く、渡邊氏ならば渡辺氏に、
澤田氏なら沢田氏のように、同じ字義で有っても字体を変えて総領家に憚ったものという。
またそれと思しき刀工名に長谷部兄弟の通字があるが、この場合、長谷部國信の「國」が正字であり、
兄と伝わる国重の「国」が俗字であるところから出生順序の誤伝、あるいは嫡出、庶出の違いを疑わな
ければならない。
こうした慣習に照らせば、兼㝎の場合も正字体の使用を慎み、略字に代えていた可能性が指摘できるが
、そのような視点に立って既成概念とは異なる解釈を試みると、若き日の兼㝎は嫡流ヒキサダが率いる
工房の一門人に過ぎず、ヒキサダ名跡の襲名を許される立場になかったとも考えられる。
そして常々は師銘ヒキサダを刻した既成品製作に携わっており、資料3のような入念作は、偶さかの機
会に託された代作代銘刀ではないだろうか。
その来由は、緒言に古剣書の信憑性を疑っておきながら一貫性に欠ける誹りを招くことになるが、『古
今銘盡』の兼㝎に、「和泉守根本甲刕ノ者也 後ニ濃刕関ニ住…」とある記述に因っており、生い立ち
、境遇から生え抜きの関鍛冶とは同列になく、鍛冶座組織で連帯した閉鎖的社会とも否応なく一定の距
離を置いていたことであろう。
それは取りも直さず兼㝎銘の允可までに多くの年月を経ることになるが、熟練工で独り立ち、独自路で
活動した結果は直ぐさま目覚ましい評価に表れている。
同時にそれは今までの延長上として改銘したことと表面上は変わりなく、ヒキサダ銘が師の名を借りた
代作という仮説の裏付けは容易に見出せそうもないが、代作代銘を手掛けたという証左には、資料4
刀、銘「濃州関住人兼綱作」が例示でき、いかにも不慣れな「綱」の鏨運び以外は明應期の兼㝎銘と区
別がつけ難く、同工の手蹟としても疑わしさは見られない。
さらに兼綱銘では数少ない重要刀剣指定を受けており、既に兼㝎の技倆が並みならぬ水準にあったこと
も窺い知れる資料となっている。
こうした代作代銘についての研究は『日本刀工辞典 古刀篇』(藤代義雄氏著)に嘉元前後の長舩傍系
鍛冶の作例が嫡系に比して少ないのは嫡系の協力者であったからだとし、『名刀図鑑』(藤代松雄氏篇
)には近景による代作代銘の景光刀が四振り確認されているが、これを景光が弟の近景を引き立てるた
めに自身で刻銘せず、代銘まで委ねた例であると考察されている。
この嫡系に兼綱が当るのかどうかは今後の研究が俟たれるが、刻銘から代作者が判明することは極めて
珍しく、また代作代銘は高技倆の門弟が事情あって師や親族に代わり製作するものであり、数打ちもの
に刻された銘切師の手によるものを含まないのは言うまでもない。
それ故に明應期の兼㝎が兼綱の代作を務めたということは、この時点で自立した鍛冶の立場にはなく、
兼定工房の一員であったとする傍証と捉えたい。


おわりに

「兼定 刀都・関の名工」展には関兼定が出版した観音経(資料5)の複写も参考出展された。
この原本は大英博物館図書館に収蔵されているもので、その発見に関わった福永酔剣氏は、著書『日本
刀大百科事典』の中で、絵解きされた豪華な内容から兼㝎の財力がうかがい知れる資料として紹介され
ているが、巻末の奥付には「濃州関兼定 永正甲子九月日」と楷書の「定」で印刷されている。
これについて福永氏は『麗 247号』(銀座刀剣柴田)の中で兼㝎自身が版下を書いたものではない
と説明されているが、「関」と「兼」は刻銘を意識したかのような崩し方をしているだけに、些か説得
力に欠ける気がしてならない。
刀工は何より銘にこだわるはずであり、版刻だからといってヒキサダと誤認されるような校正を見逃す
とは到底思えず、そうなれば素直にヒキサダが施主であったとするのが自然ではないだろうか。
また、再三の繰り返しになるが、兼㝎の活動期間は文明四年に始まり大永六年を最後とする五十四年の
長きに及ぶとされている。
ところがそのうち和泉守受領銘は永正八年(1511)以降の十五年であり、その前の濃州住人兼㝎銘
は明應八年(1499)からとしても十二年間に過ぎない。
つまり楷書銘時代が刀工人生の半分を占めていることになるが、現存するものは兼㝎銘が圧倒的に多く
、そこに乗じてヒキサダの佳作であれば、何でも兼㝎初期銘とこじつけたがる風潮があることにも憂慮
を募らせている。

(1) ヒキサダという語彙を三代目の代名詞と認識されている方が多いが、本稿ではウ冠の下を楷書
にしたものは全てヒキサダとし、代別を意味するものではない。
(2) 兼㝎に改銘以降、桧垣鑢は短刀に限られていく。
(3) 長舩の「舩」も船の略字であるが崩し字(草書体)と変わりない。
(4) 社会一般に用いられてはいるが、規範的観点からみて正しくないとされる漢字をいう。
(5) 関鍛冶の中で、住人銘や年紀銘、注文銘が圧倒的に多く、受領銘や出向駐鎚銘のほか、鷹羽鑢
から筋違い鑢への切り替えも他工に先駆けるなど、自由奔放さがある。