「刀剣をめぐる見立て」について 

若原利彦

刃文に蛙子、虻の目、馬の歯、蟹の爪があり、帽子に地蔵、ロウソクという呼称がある。
これらは対象を他になぞらえて表現する「見立て名」が使われているのであって、刀剣用語には多様な「見立て」が存在する。
見立ての手法は、古来より様々な分野で用いられ、侘び寂びの世界でも千利休は見立ての達人とされているが、日本文化を育んできた美意識であり、日本人の感性には見立ての精神が連綿と伝わってきた。
ただしこれらの多くが掛詞や比喩的暗示でもって、奥ゆかしさ、雅やかさを愛でてきたのに対し、大方の刀剣用語は、単に見た目だけが似たもので譬えられているにすぎない。
しかし中には、「朝嵐勝光(注1)」や「歌仙兼定(注2)」のような見立ての異名もときに見受けられ、情緒豊かな見立てが皆無というわけではない。
例えば古は棒樋のことを「刀の笑み」と称していたが、これは人が微笑むときに、唇の僅かな隙間が上反る様子を見立てたものであり、こうした風雅な心境で鑑賞する刀剣の世界に、新たな賞翫法があることを以下に紹介したい。

最初に取り上げるのは、図1の「二見浦ノサダ」と地元岐阜で異名される短刀である。
図2の写真は刀身にライトを映り込ませ、二見浦の夫婦岩から眺める旭日に見立てたものであるが、「二見(三重県伊勢市二見町)」という地名は、(注3)が同地の神社から見た景色の美しさに二度振り向いたことに由来し、夫婦岩は同海岸からの日の出を逢拝する景勝地(参考1)として名高い。
本刀が、村正や関鍛冶の多くに腰刃がある中で、特に二見浦と異名されている所以は、単に二つ並んだ互の目にあるだけでなく、揺らぎの無い直刃が波穏やかな伊勢湾を連想させるとともに、刀身彫りが表裏で夫婦箸になっていることにある。
なお兼㝎には永正十二年、同十四年の伊勢山田打ちがあることも知られているが、伊勢山田(現在の伊勢市街地)から8キロメートルほど東方へ足を延ばせば二見浦に至る至近距離にあることから、兼㝎が当地へ訪れ、夫婦岩を前にして刃文のインスピレーションが湧いた、つまり富士見西行(注4)と同じく、風景を再現した刃文の先駆けではとのあらぬ想像もかきたてられている。

次に取り上げるのは、天文十七年十二月日の裏年紀を刻す兼則(図3)であるが、本工は関七流の三阿弥
派に属するといい、末関を代表する兼定・兼元等に次いで技量も高い。
本作は、板目肌が地沸ついて詰み、精良に冴える鍛えに、美濃映りが鮮明に立ち、刃文は匂い出来の互の目に小湾れ、小丁子、尖り刃を交え、所々焼きが高く、腰刃風があり、飛び焼きかかる出来をした名刀である。
この刀は美濃刀研究における泰斗の秘蔵品といい、幸運にも岐阜県支部幹部宅で拝見する機会に恵まれたが、その折に本刀の腰元に何か見えないかと試されることがあった。
いわゆる刀剣鑑定とは違った借問に戸惑いながら、その部分に目を凝らしてみたものの、これといった特徴は捉えられず、見たままを素直に答えたところ、深い匂いに包まれた円相が、野晒(されこうべ:図4)の眼窩に見えないかと訓えられた。
なるほど一度そう言われれば野晒にしか見えなくなるもので、これを心理学ではパレイドリア現象ということをのちに聞き齧る。
野晒は「もののふ」の死生観、あるいは世の無常観を示すものとして鐔の画題には見かけることが多いが、これを刀身彫りとしたものは未だかって仄聞すらしたことはなく、刀剣には無縁の意匠だという先入観があった。
さらに問者は押形作者として夙に有名であり、刃文を精確に写し採る技術は卓越しておられるので、採拓過程で得た新たな知見が示されるものと思い込んでいた。
そのため偶然の景色を野晒に見立てる発想にはいささか意表を突かれ、採拓しながらもそのような鑑賞ができる情感の豊かさに感嘆させられたものである。

最後は、飛騨守藤原氏房の脇指(図5)である。
同工は、美濃鍛冶若狭守氏房の子で、「相模守政常」「伯耆守信高」とともに尾張三作の一人であることは周知のとおりであるが、本刀は平造りで、身幅広く、先反りついた姿に、表へ香箸、裏は棒樋の彫をともに掻き流している。
鍛えは板目に地沸付いて肌立ちながら流れ、刃文は沸出来の湾れ、所々刃縁がほつれて、腰元に小足が入る。
帽子は一段と沸づき、湾れこんで先小丸に深く返るが、その様相には誰しもが、手を結び示指を天に指した情景を想い浮かべるであろう。
そしてこれを手にするや否や、暗幕という夜空が背景に広がり、人工の光源が清けき望月に代わって、それを指さす一幅の名画、つまり指月図(参考2)の世界へと知らぬ間に誘われていくのである。
ちなみに指月とは仏教の教戒画題であり、月を仏法、指を教えに例えたもので、あれが月だと指差せば、賢者は真如の月を見出だすが、愚者は指先を見て月を見ないという譬え話のことをいう。
刀剣鑑賞の要諦が、姿、地鉄、刃文にあることは言うまでもないが、それだけに捉われて野晒が見えなかった筆者には、些か身につまされる教義であり、本稿を執筆するきっかけとなっている。
また武器である日本刀は、本来実用を満たせば事足りるはずであり、刀剣の魅力は機能美であることも疑いようがないが、そのような隙のない張り詰めた中においても、偶然が見せる景色に風情を感じ、賞玩してきた文化を現代人はややもすると見落としている気がしてならない。
本稿を一読された方は、あらためてそうした目で御蔵刀をご覧になると、新たな一面が見い出せるのではないでしょうか。

注1:草葉の露(はかない命)は朝嵐にあえば、ぽろりと落ちるという切れ味のたとえ。
注2:細川忠興の指料。成敗した家臣の数が三十六人に上ったことにより、三十六歌仙に因んだという。
注3:十一代垂仁天皇の第四皇女。神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。
注4:富士山形の腰刃を焼き、その上を丁子、直刃と技巧的につないだ刃文。

(わかはらとしひこ)

ご協力者(敬称略) 近藤邦治、鈴木卓夫、廣井順二
参考図書 『室町期美濃刀工の研究』、『日本刀大百科事典』、『貞丈雑記』
引用絵画 「月百姿 悟道の月」月岡芳年画