勝虫図の由来について

若原利彦

はじめに

鐔を始めとする装剣具や武具類には、武士の精神性を象徴する画題が見られるが、その双璧をなすのは野晒(のざらし)の図と勝虫の図(参考1)であろう。
野晒図とは戦場に散ったもののふの白骨化した様相を表したものであり、命を惜しまぬ意気と世のはかなさを意味するという。
そのため荒涼とした情景にあっても、鉄鐔界の巨匠、金家、信家作のような幽遠の境地に耽される名品もあれば、西洋の海賊旗と同様、背筋を凍らせる思惑が伝わってくる作品も稀ではない。

それに対して勝虫図は、その名の縁起の良さが明日の勝利を頼む武人の願望をあらわしたものといわれており、勇ましい名称の割にはどこか長閑な雰囲気が漂う親しみやすさがある。

従って共に合戦に臨む気構えを標榜しながら死生相反するモチーフとなっており、当然ながら双方を組み合わせた作例は未だ仄聞すらしていない。

また確かな裏付けのない経験値に過ぎないが、現存作品数では勝虫図が優勢と思われ、諸行無常の諦観よりは武勲功名を恃む多数派に平俗な共感を覚えるが、本小論は勝利のしるしとされたこの勝虫の所以に迫ってみる。

通説に対する疑念


勝虫とは蜻蛉(とんぼ)の異名であるが、そのような異名で呼ばれる理由は『日本刀大百科事典(福永酔剣氏著)』に、蜻蛉は進んで退くことを知らないからとあり、同様な趣旨を展開する書籍やマスメディアも多いため、刀剣界に限らず広く世間一般でも通説となっている。


しかし飛翔中に身をひるがえして後ろへ戻ることがある蜻蛉の習癖を比喩した、とんぼ返りという慣用語が古くからあるように(注1)、戻る、あるいは返すという語句は、合戦のさ中であればいかなる用兵であろうと後退には違いなく、退くことを知らないという見解については釈然としないものがある。

このような理屈を説けば、退くとは後ずさりのことだと反駁されそうであるが、蝉や蝶のような被食者側の昆虫でも、前方へ飛行するだけで後へ退くことが無いのは一緒であり、進むことだけが勇猛の証であるかにいうのも素直に同意できない。

しかも殆どの蜻蛉には定点ホバリング(注2)できる高度な飛行能力、習性があり、その態勢で矢庭に吹く風に押し戻されれば退いたように見えることすらある。

さらに日本機械学会関東支部の講演論文「トンボの羽ばたきの解析」(注3)の緒言には数多くの飛行昆虫のなかでトンボは後進、ホバリングを自在に行うとあり、小山高専研究紀要の「トンボの羽ばたき飛行」(注4)においても後進を自在に行うとの記述が見られるように、必ずしも進むだけとは言い切れるものではない。


ただし実際には瞬時で距離も僅かであり、捕食者から進路を予想されないように、せわしなく進行方向を変えるため、それと気づくことは稀なことかもしれないが、少なくとも蜻蛉だけが退くことを知らないと言わんばかりの定形句には、首肯するに足りる明白な根拠を欠いている。

また武家の習わしでは敵に背を向け逃げること、つまり卑怯と臆病な振る舞いを何より憎んでいたのであり、兵法上の引揚げや無意味な犬死を避けての撤兵などは批難されるべきことではない。

それどころか向こうみずに敵中へ突き進むだけで、退くことを知らない者を猪武者と軽侮していた記述が古典(注5)、戦記の其処此処に見られ、猪を装剣具に描写したものは、干支の亥や仏教の守護神である摩利支天の使わしめとして題材にしたものを除けば人気がなかったという。

したがって蜻蛉の進むだけで退くことのないという性向を賞でたというならば、この猪勇との違いがあるわけではなく、猪は不評だけど蜻蛉ならば好まれたという理由の説明に窮せねばならない。


このように蜻蛉の生態からも、武士の信条からも退くことを知らないから訓戒にするというのは僻目であり、訛伝に過ぎないと考えるのである。

別解釈の存在

こうした疑念を解き明かす史料として、武家故実の『貞丈雑記(伊勢貞丈著)』(注6)武具の部「武器に蜻蛉の形を付くる事」を例証に取り上げ、以下にこれを援用、紹介すると「鎧の後ろにあげまき(参考2)をむすび付けて〈中略〉あげ巻の一名をとんぼう結と云うなり。とんぼうと云う虫はあとへしさ(退)らぬ虫なり。武士のあとへしさるまじきいましめの爲に用ゆるなり」とあり、ここまでは通説どおりの論調で筆を走らせている。


しかし校訂者の岡田光大によれば、『古事記』および『日本紀』において朝敵征伐に大功のあった蜻蛉の逸話が記されていることを挙げ、これにあやかって武器にとんぼの形を好むことになったとの頭書が書き添えられており、原文通りに校正しながらも通説を追認する姿勢はない。

この通説を斥ける見解の典拠となった逸話とは『古事記』の中に、即幸阿岐豆野而御獵之時天皇坐御呉床爾𧍑咋御腕即蜻蛉來咋其𧍑而飛於是作御歌…云々とある条のことであり、『日本紀』においても同様の内容が記されている。

これを現代風に意訳したものによれば、雄略天皇(注7)が吉野の阿岐豆野(あきつの)へ狩猟に出かけ、御呉床に座っておられたところへ虻(あぶ)が来て天皇の御腕に喰いついたが、そこへ蜻蛉が飛来し、たちまちその虻を喰い殺したため、喜ばれた天皇は御歌を詠まれて蜻蛉を称えられたという。

かかる故事をもとにした岡田光大の解説では、この逸話に登場する虻は天皇に仇なす朝敵ということになり、蜻蛉はその朝敵征伐に功績があったから、悪事をなす朝敵を討伐する武器には蜻蛉の形を象ることになったということである。


こうした説示をしたものを『貞丈雑記』以外には知らないが、理趣に無理がなく冒頭に挙げた疑念も生じることがないので、これが勝虫の異名を得た真相であり、武運を托すというよりも元来は朝廷警護の象徴であったとみるのが穏当ではないだろうか。

「記紀」の逸話はインターネット上でも時折り紹介されているのを見かけるが、現状では未だ通説が支配的であることは周知のとおりであり、ことに刀剣界では一部指導者的立場の方の既成概念となっていることにもどかしさを覚え、つたない文章を書き連ねた次第である。


おわりに代えて(余談)


徳川家康の重臣、本多平八郎忠勝の愛槍藤原正真作には、飛んできた蜻蛉が穂先に当たって切れたため、蜻蛉切の号がつけられたという所伝(注8)は普く知るところであろう。

俊敏で捕らえることすら難しい蜻蛉が槍に惹き付けられたかのような奇譚は、鬼切、山姥切、真柄切などのように異形の者、豪の者を討ち取った武勇とは違う凄みがあるが、予期せぬ椿事とはいえ武運の兆しを切ったという号を冠したことには、そのような縁起かつぎなど歯牙にもかけない闘将の誇りを感じさせる。

しかし鉄漿(かね)(注9)をつけ、黒尽くめの甲冑の上に大数珠を袈裟懸けした肖像画(参考3)からは、常に死と背中合わせに生きてきた覚悟が窺われ、あたかも野晒図を暗喩させているかに思えるが、さらに想像をたくましくするならば、蜻蛉切には敵将が恃みとする勝虫など切って捨てるという威嚇もあったと解したい。


なお本稿を執筆するにあたり、多くの知見を岐阜県支部長の近藤邦治氏より授かりました。また長崎支部長の廣井順二氏には、貴重な資料をご提供頂きましたので本誌面を借りて謝意を表します。


注1:『平家物語』巻第四「橋合戦」に太刀捌きの技名として、蜻蛉返りがある。

注2:停止飛行、空中浮揚状態のこと。

注3:日本機械学会関東支部ブロック合同講演会‐2000桐生‐講演論文集〔2000・6・23 〜24桐生〕
注4:小山工業高等専門学校 研究紀要第41号(2009)39―44

注5:『平家物語』巻第十一「逆櫓」に、かたおもむきなるをば猪武者とてよきにはせず、とある。

注6:伊勢貞丈が執筆した有職故実の雑記。天保十四年(1843)岡田光大により編集刊行された。

注7:第二十一代天皇。考古学上の実在が想定されうる最古の天皇。

注8:『藩翰譜』(新井白石編纂 元禄十五年 1702)に記載されているが、伝聞調のため懐疑的な意見もある。

注9:お歯黒のこと。敵に討たれても葉武者と紛れないようにした一種の死化粧。