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論文『「濃州」の読みについての疑問』


 美濃国鍛冶の住人銘に「美濃国住」は希であり大多数が
「濃州住・濃州関住」を刻していることは周知の通りであるが、
この濃州の読みについては「のうしゅう」と一般に流布しており、
古語、地名ほか然るべき辞典類においても同様である。

しかしながら近世以前には「じょうしゅう」と読んでいたことを
窺わせる文献類が間々散見されるので既に御存知の方も
あろうかとは思うが身近な事例に基づきこの件に疑問を
投じてみたい。

国名の一字に州を付けて表記することは律令制で定められた
ことではなく漢詩を作る上で中華風に擬した地名呼称であると
云われており最古の字書である『倭名類聚抄』の国郡部や
『延喜式』には見当たらない。

こうした風習の詳らかなことは別稿に譲るとして国によっては
州号および読みに一貫性が無いこともまた周知の通りであり、
美濃に於いては郷土史として著名な『新撰美濃志』(岡田文園稿、
天保十四年)を参看するに『本朝文粋』『砂石集〔ママ〕』『元亨釋書』
『竟宴和歌〔ママ〕』(何れも平安、鎌倉期の典籍)では「美州」と称し
『田氏文集〔ママ〕』『本朝無題詩』などでは「濃州」を使って今に至る
とある。

しかし濃州の読みに就いていえば管見した史料の中で
「のうしゅう」と称されてくるのは江戸後期以降のことであり、
学問的蓄積の浅い中で知り得た範囲においては時代の上る
史料を末だ目にしてない。

国号、州号の読みは現存最古の刀剣書である『観智院本銘尽』
(行蔵坊幸順寫・応永三十年)にも見ることができるが、備前
国号の平仮名表記「ひんせん」を始め、駿河国の「シュンしゅう」、
伊豆国の「トウしゅう」と云うような現代にまで継承していない
州号の読みが見受けられるなかで本稿の主題である濃州には
残念ながら傍訓されておらず、「じょうしゅう」と振り仮名のある
刀剣書としては最古と思しき『往昔抄』を事例参照の階梯に
挙げる。

同書は室町期を代表する押形集の一つで八百数十点の押形
(絵形)を所載しているが、その銘文の多くに振り仮名されて
いることがここでは貴重であり、うち濃州住人銘の事例は四点
資料一)収録され一様に「志やう志う」とあるのが確認出来る。

この押形集は土岐氏の被官衆である長井越前守利匡が
永正年間に編輯したものを友人の神戸(ごうと)三河守直滋が
天文十六年に転写し名付けたものと云い、豊富な資料が
評価される反面、誤字脱字、誤写が甚だ多いとの指摘もある。

然し収録史料中一点だけではあるが備前国包平に「びんぜん」の
振り仮名も見られるなど『観智院本銘尽』と共通する情報があり、
そして何よりも編輯・転写に携わった両名が地元美濃の住人
であることは「じょうしゅう」と云う表記に関する限り懸念には
及ばないと考えている。

また原本を経眼する機会には恵まれていないが、太田牛一が
織田信長の伝記を著わした近衛家陽明文庫本や建勲神社本
などを底本にして公刊された『信長公記』を始め小瀬甫庵撰の
『信長記』などに記されている「ぢょうしう」の振り仮名も歴史文献
としての資料価値には様々な見解があろうが、当時の読みを
知る上においては好史料であり、桃山期を前後する地元岐阜に
由来した史料同士で読みの一致がここに見られる。

さらに幅広く一般教育に供された史料として享保以来幕末までの
百五十年に渡り版を重ねてきた往来物の『童訓往来新大成』
(西川龍章)を挙げることが出来る。

この往来物とは寺子屋などで使用された初等教科書のことであり、
有名な『庭訓往来』をはじめ平安期以降に出版された往来物は
実に七千種以上に及ぶと云われているが、本書は庭訓往来ほか
各種往来、詩歌、暦、九九掛け算表など四十四種の教本を合本に
した総合教科書で、大まかな地理を紹介した大日本国盡并廣邑の
章では五幾、七道毎に六十八国の国号と州号を一覧にしてあり、
教育の場においての音読にはこの時点でなお「じやうしう」が継承
されていることを確認できる(資料二)。

以上のように時代を異とする刀剣書、軍記、往来物の三様史料を
抽出して見る限り「じょうしゅう」と云う呼び方が一部地域や限定
期間にだけ通用したものではなく、少なくとも室町後期から江戸期
全般に掛けての社会常識であったように思われる一方で幕末
嘉永期に至って「のうしゅう」の読みが蔓延し始める様子を窺い
知る錦絵集がある。

この『太平記英勇傳』と題されている画集には歌川国芳の
武将絵を基に柳下亭種員の解説文(資料三)が記載されており、
絵毎に「じょうしゅう」と「のうしゆう」の両振り仮名を使い分けて
いるところから同時期に二通りの読み方があったことが窺われ
特異な例として注目されるが、この両用表記については当代
一流の戯作者である種員が誤謬を見逃したものとは考え難く
「のうしゅう」が新たに俗言(読み)のまま公認されだしたのか、
あるいは「エイミツ・永光」や「ホウミツ・法光」 のように「長光」、
「則光」との紛乱を防ぐ異読と同様、「城州」や「常州」或いは
「上州」との区別に慣用していた言い換えなのかは末だ史料収集
の途上であり検証までにも及ばないが、これ以降「じょうしゅう」が
急速に廃り「のうしゅう」が定着するに至った次第は想像するに
難くない。

従って今や標準音と化した「のうしゅう」を否定するまでの根拠を
示さぬまま「じょうしゅう」に復すと主張するには些かの偏頗を
自覚し論証の拙さを憂いているが、平成の大合併で失われていく
地名を惜しむ声が各地にあるように地名も文化・歴史の一端で
あるからこそ「大坂新刀」は「大阪新刀」とは異なるのであり、
呼び方もまたこれ鍛冶達の活動当時に相応したものがあるならば
それに倣うことが好ましいと愚考するが如何であろう。

岐阜県支部 近藤 邦治