「美濃鍛冶小論」

1−1  「兼」の字について


 刀剣界の一部には、五ケ伝と言うことが言われておりますが、その一つに
美濃伝が数えられていることでも知られるように、美濃国は刀剣五大産地の
一つで、室町時代には備前国とその勢力を二分した刀剣王国でありました。
この美濃国で活躍した美濃鍛冶の持つ特徴、彼らが活躍した土地柄などの
中から、いくつかを取り上げ、角度を変えた視点から美濃鍛冶集団を眺めて
みたいと思います。

 美濃鍛冶については、諸先輩により研究の対象とされ取り上げられ、多くの
論文等の発表がされて来ましたが、戦後は末関物の市価が安かったこともあり、
とかく軽視されて来た感がありました。しかし、昭和五十年発行の刀剣研究
連合会刊『美濃刀大鑑』において、その研究が集約されております。

 この小文も、文中ではありますが、本書を参考とさせていただきました事を
注記させていただきます。
 
 美濃鍛冶には、他国の日本刀鍛冶と異なったいくつかの特徴があり、その
一つに「兼」の字を通字としている事が挙げられ、今回はこれを取り上げます。

 我が国の職人には、いつのころからか作者名の一字を世襲する慣例があり、
日本刀鍛冶もその例外ではありません。

 室町時代の一時期、一説には、約五百名いたといわれる美濃鍛冶が、すべて
「兼某」と名乗っており、銘鑑を見ても「兼」の字の次にどんな漢字を持って
来ても必ず該当する刀鍛冶がいると言えるくらいで、彼らはこの「兼」の字を
南北朝初期ころから名乗りの通字として使うようになっております。

 南北朝の時代、南北両朝の対立による世情混乱に乗じ、戦略上の重要拠点の
美濃の地の武器需要を満たすため、大和国より「兼氏」、隣国越前より「金重」
「為継」らが一門の鍛冶を引連れ、ぞくぞくとこの地に来住し、一挙にその数が
増し、美濃鍛冶の基盤が形成されました。

 急増した美濃鍛冶は、安定した需要関係確保のため、仲間どおしが結束し、
生産コストや販売経費の低減化と代金回収の円滑化をはかる、いわゆる「座」
組織のようなものを作る動きが始まりました。これが後世の関鍛冶の「七頭制」
といわれる「鍛冶座」へと発展し、室町中期より末期にかけて最盛期を迎える
ことになりました。

 美濃鍛冶の歴史の中で「兼」の字が初めて現われますのが、大和より移住した
「兼氏」「兼光」で、彼ら一門により受け継がれた「兼」の字が、室町中期の
鍛冶座結成のおり、どのような理由かははっきりしませんが「座」仲間の構成員
としての証しとして用いる事が取り決められました。

 この「兼」の字を用いるようになった理由の一つとして、大和より移住して
来た美濃鍛冶は、すべて藤原氏の氏神である春日明神の氏子であり、藤原鎌足
公の鎌の字を分けた「兼」の字を用い、鍛冶座構成員の証しとしたことがあげ
られます。