「美濃鍛冶小論」

10−2 赤坂千手院鍛冶の移住先


 南北朝期より室町時代にかけて赤坂の地で活躍した赤坂千手院系鍛冶も
室町時代に入りますと、関鍛冶と合流する者、隣接の地草道島、中濃の志麻郷
(小山)、酒倉(坂倉)等に分派して、それぞれ活躍の場を移動しております。

 これ等鍛冶の移住の原因については、天災、政治、経済、素材等の入手の問題等
いろいろ考えられますが、現在これ等鍛冶に関する資料が皆無に等しくはっきり
した事は今後の調査研究を期待します。

 移住鍛冶には、志麻郷に、長真、長吉、長守の諸工、小山関といわれる長勝、
長広、広長、草道島には、弘長、弘重、重永等が知られていますが、これ等鍛冶の
移動の状況も種々の説が有り確たる定説がありません。(『美濃刀大鑑』刀剣研究
連合会刊)。

 しかし室町中、末期にかけてこれ等の鍛冶が各地にて鍛刀活動を行った事は、
少ない資料、傍証等により否定できません。

 今後、全ったく別方面の研究等よりこれ等鍛冶の活動に関する事実が立証される
ような気がいたしますが、むずかしい事でしょうか。

 また、志麻郷より隣接(西方)坂倉の地に正吉、正利、正後、正善等の諸工が
移住鍛刀活動を行っており後世これ等鍛冶を坂倉関を呼ばれていますが、この
グループについても、資料不足の点はいかんともしがたく、千子一派との関係、
関鍛冶との交流等、現存作品等からの考察では十二分に考えられますが、たびたび
記しました如く、千子鍛冶との交流等は、木曽川水系の交通路にて行なわれた事の
推察はできますが、これを立証する確証が見当りませんので現在では推論として
のみしか取扱いできません。