「美濃鍛冶小論」

12−2 縄文時代より開かれた土地


 歴史的には、市内各所に点在する遺跡より縄文の時代より開かれた
土地で『延喜式』に現れる飛騨路の武儀駅は現在の関市におかれたと
推定されています。

 平安時代に至っては、市内各所に現存する寺院、仏像、窯跡等より
美濃の地に於ける産業、文化の中心地であった事が推察出来ます。

 鎌倉時代は、美濃源氏の勢力圏で中央に近い土地柄より数多くの
荘園がおかれ、戦略的にも東西を分ける要衝のこの地は、後世一大
武器産業が栄える為の下地が作られました。

 関の地名のおこりは、一説に景行天皇(七一〜一三〇)の美濃行幸に
際し、現在の関市に非常の守りに備えて関所が設けられたところから
「関」の地名がおこったといわれているが真偽は明らかでない(『美濃刀
大鑑』)と記されていますように、現在では確たる定説はありません。

 しかし、交通の要衝のこの地に、時代は定かでありませんが関所が
おかれた事に由来する事は確かなようで、一般的に、関の名称が用い
られるようになった時期については、南北朝最初期、建武三年
(一三三六)八月十日の鷲見忠保軍忠状写(長善寺文書)に関の地名が
初見されるといわれています。(『日本地名大辞典』角川書店)。