「美濃鍛冶小論」

15−2 現存品の大半は天文以後


 以上の調査結果について少し考察をしてみますと、時代の移り変わりにより本数の
増減がみられ、大きな傾向として、南北朝期の貞治ころから室町時代初期の応永の
初めにかけて、今一つは、室町時代中期に二つのピークがみられます。この傾向は、
丁度世情騒乱の武器需要期と一致します。

 南北両期の抗争のあおりを受け、それまで大和の国内で、寺院の武器調達に当って
いた大和の鍛冶集団は、大和国内での仕事が減少したため、全国各地に移住し始め
ました。

 その中の手掻、千手院系の二派は隣国美濃国にそれを求め、志津、直江、赤坂等
美濃国西部を中心に鍛刀活動を始めました。

 また、移住の動きの中で、北陸を経由し、関の地に定住した一派がありました。
第一のピークは、これら大和系移住鍛冶が美濃国で、地元の有力武家の注文に応じた
作品がこのピークを占めているためと考えられます。次の時代、室町幕府の成立で
世の中も安定し、武器不需要期が到来することになる訳ですが、この状況も表1は
顕著に表しています。

 応永時代の不需要期に美濃鍛冶は、東濃の地、関に集まり(関に集まった理由は
今一つはっきりと説明できません)、応仁の乱を発端とする戦国乱世の武器調達に
対応する活動を始めました。関の鍛冶座といわれる組織がこれに当ります。そして、
文明から天文に至るピークが、これ等の鍛冶達の作品がこれに該当するものと思われ
ます。

 しかし、現在われわれがみる事のできる美濃刀の大半は、天文以後と思われる
作品、いわゆる、未開物といわれる数打物が大半で、表1の傾向と時代的なずれが
生じています。この事は、関鍛冶の集団作刀活動(鍛冶座組織)を考える事により、
説明できると思われます。

 すなわち、美濃鍛冶集団の活動も、永正、大永ころまでは、組織内での鍛冶個人の
活動がわりあい自由で、各自作刀技術の優れた刀工は個々に注文を取り、作刀する
という同時代備前鍛冶が行っていた、いわゆる注文打の比率が高く、この時代までは、
鍛冶座組織の「七頭制」の力も今一つであった事が推察できます。

 ところが、この期をさかいに、集団戦闘方式の発達に伴ない、刀剣の需が急激に
増大する事とり、美濃鍛冶もこれに、応ずべく組織力を一層強し、分業化を計る事で
量の刀剣を世に送り出た、という事ではないでしょうか。

 信長、秀吉により、天下の安定が保たれた天正の時期、関鍛冶の組織の力の
必要性も次第にうすれ美濃鍛冶の全国分散が始まり、一部の上手鍛冶により作られた
注文打が、天正の時代の小さなどピークと考えられます。その後の美濃鍛冶の動向
は、以前に説明させていただたとおりですので、参考にして下さい。

 以上、少ない資料でが、この様な整理をする事により案外、一つの鍛冶系統の
時代の変遷が理解しやすくなる様に思わますが、如何なものでようか。

 資料点数を多くする事で、一層細かい時代の移り変わりが把握できるではないで
しょうか。