「美濃鍛冶小論」

2−2  「鍛冶座」について


 美濃鍛冶の他国鍛冶と異なる大きな特徴に「鍛冶座」があります。
 南北両朝の合体により、平和な時代になった室町時代、武器の需要が急減し、
他国鍛冶のような有力武士階級の庇護を受けることのなかった美濃鍛冶は、安定
した需給関係を確保するため、仲間同士が結束する動きが始まりました。

 武器需要が旺盛な前時代のように、注文を待って生産する方法では、急増した
鍛冶の生産を賄うことが出来なくなった彼らは、応永(一三九四〜一四二八)の
終わり頃、積極的に販路を開拓し、生産方式も従来のような個々による受注生産
方式から、集団による計画生産方式に切り換え、鍛冶仲間を一つの統制下におく、
いわゆる「座」組織のような自治集団を作る動きが関鍛冶の間で始まりました。

 当時の座組織が公卿、幕府、有力社寺、などの力を背景としていたように、
永享五年(一四三三)当時の関鍛冶の二大流派、千手院系、手掻系の鍛冶の手に
より、鎌倉時代末期、大和より関の地に勧請されたまま荒廃していた「春日神社」を
再建し、この神社を本所とする鍛冶座を作り上げました。