岐阜県で最初の刀剣研究会

第一回「濃州刀剣会」開催

 それは明治44年(1911)10月8日午前9時から岐阜市美江寺の観昌院で
第一回目が開催されました。 「濃州刀剣会」として発足したのは丁度今から
100年前のことになります。私たちの先輩方がどのようにして発会し、運営を
してきたのか最初に『刀剣と歴史・第十四号』(明治44年11月25日発行)を
もとに紹介してみましょう。

*第一回目の出席者
 林 某・小幡興治・神谷八郎・高木錬吉・館野雄寅・高瀬 
・田弥三松・
長渡忠
・野村豊・大場修・栗原重平・山田甚兵衛・福田市五郎・後藤扇吉・
木村忠
・杉山義利の諸氏にて最初に本会規約を決定し、次に鑑刀及び
その方法を相談されました。 (注)判読できない字を某と記す

*濃州刀剣会規約
 当日決定した規約は下記のとおりでした。

   第一条:本会は濃州刀剣会と称し刀剣に関する趣味を交換し相互に
        研究するを目的とす。
   第二条:本会は隔月一回第三日曜日岐阜に於いて開会す、但し其の他
        臨時(ママ)大垣若しくは関に於いて開会する事あるべし。
   第三条:幹事二名を置き会務を掌る。
   第四条:会費は開会の都度その実費を出席者より醵出するものとす。
   第五条:時には斯道の大家を聘して開会する事あるべし。

*当日の出品刀
 愛刀家がそれぞれ持参した刀を鑑賞した様子で、入札鑑定は行われなかった
 ようです。

  林  氏; 青江吉次の刀 外、無銘彫物の脇差二口。
  小幡氏; 大和守安定・常陸守宗重・河内守國助の刀三口 外、無銘脇差。
  高木氏; 信國の槍・永正祐定の刀 外、一刀。
  館野氏; 長船眞長と無銘の脇差。
  田
氏; 國廣の刀・藤原行長の刀・応永の備前景光・丹波守吉道と
        大和守吉道合作の脇差 外、四刀。
  大場氏; 大和守安定の刀・國重 廣光の脇差。
  山田氏; 井上眞改・丹波守吉道・信國の脇差 外一刀。
  福田氏; 次光の刀・越中守正俊の脇差。
  後藤氏; 孫六兼元・越前康継・近江大椽忠廣の短刀。
  杉山氏; 綱廣・兼吉の脇差等

*『刀剣と歴史』

  発行所;羽澤文庫
       当時の地名で東京府 豊多摩郡 渋谷町 南豊島(ママ)御料地 羽澤
       現在の東京都 渋谷区 羽沢町
  発行人;近藤藤之介(鶴堂翁)
       明治43年10月25日に第一号が発刊
  所有者;高瀬羽皐(隠史)

*刀剣会発足と高瀬羽皐
 岐阜県に初めて刀剣研究会ができたのも、羽皐先生のご尽力によるもので、
先生は関にも来られました。そのエピソードを第七号で語っておられます。

 「明治44年3月23日の午前8時長谷川君と共に岐阜を発す電車にて関へ
赴く。一時間と二十分で達した。 停電は一度もない三度位は有るだろうと
止まるかと待って居るに一向停電しない。是では張り合いがない。」
と言う文で始まっています。

 今は廃線になった名鉄美濃町線の前身「美濃電気軌道株式会社」(通称・
美濃電)が明治44年2月11日に神田町から上有知(現美濃市)間25.1Km
の単線が開通し、営業を開始したばかりの電車で来られたのが判ります。
当時は停電するのが当たり前だったのだろうか。

 関へは眼科医院をやっておられた後藤扇吉さん(黙声、千振堂の号もある)を
頼って来られたようです。

 同地の横田百松、研師の福田市五郎両氏と共に、千手院・香積寺・梅龍寺等を
廻ってから刀剣鍛錬所を訪問されました。

 「そもそも関の町には鍛冶屋が沢山ある。有名なる刃物の製作地で鍛冶は軒を
並べて居るが其の内で刀剣の鍛錬をする者は僅かに二人。

一は小坂金兵衛といい即ち兼吉翁の事で当年七十五歳。
一は須藤善兵衛という兼壽翁のこと是は八十歳。

小坂氏は斯道保存に大熱心の人で自ら奔走して町会を説き、武徳会支部に
頼んで練習所(ママ)を建て子弟三人に鍛法を伝習(ママ)していた。
その熱心誠に感ずべし」。

「関町は寒村であると思ったら大違い中々繁昌な処で戸数も千二三百ある。
芸者も料理屋もあるソレで繁昌知るべし、濃飛の山水最も佳。 水清く山高く、
懐古の念深き処なり。」

*寄贈の短刀 第十二号(明治44年9月25日発行)より
 兼壽翁は兼次の門人で、文庫へ寄贈した短刀は乱れ刃で至極の出来であり、
おろし鉄鍛えであったといわれます。 銘は「羽皐先生来関紀念」裏に「関兼壽
八十歳」とあり、「八十の翁が腕になりし短刀、最も珍重なりと隠史は喜んでいる。
その厚意謝すべし。」

*岐阜の一夜 第十三号(同年10月25日発行)より
 「岐阜の玉井屋にて、発会のお祝いに晩餐会を開く事になり各々盃盤の間に
剣談、刀話火花を散らし興味言うべからず。 折から秋雨しきりに訪れて街頭人
の往来なく、燈影沈々剣光のひらめくを見るのみ。・・・後略」。

*関の崇剣会
 第十七号(明治45年2月25日発行)より
 関の崇剣会もありし由として、「関町にて有名な蔵刀家後藤黙声氏宅にて、
この日は備前光忠が首位であらゆる古刀新刀を陳列。 同所の兼壽老を招き、
研師を招き知己友人を招き祝宴を開きたる由。 老は当年八十二歳、吾ら今日
かような盛況を見ようとは思わず刀鍛冶は最早世に捨てられしものと思いし。
思い掛けなく隆運の秋(とき)に逢て刀のお祭を見るに至る。
これも羽皐先生の賜物なりと涙を流して喜びたる由、同地より報あり。」


 これらの記事を目にして、その状況が手に取るように判るではありませんか。
 兼壽翁は小坂金兵衛兼吉翁より五歳年長であり、兼次の弟子であったよう
ですが、作刀は未だに見た事が無く、何所かに残されているかも知れません。
非常に見たいですね、一層この時代に興味が湧くではありませんか。

 このようにして百年前の岐阜県刀剣界が誕生しました。
 記録は勿論これだけではありません、まだまだ沢山有ります。
この明治の終わり頃から大正・昭和初期まで、『刀剣と歴史』の寄稿を始め
色んな記録を残された刀剣界の恩人・後藤扇吉翁に感謝を申し上げます。
刀剣界萬歳。


『刀剣と歴史・第十号(明治44年7月発行)』に、「関の兼吉の作 短刀
長さ八寸五分」が次のように紹介されている。

 ((おろし鉄に鍛え大乱に玉を焼き最も優れたる出来なり。
 このみち(茎裏)に「大日本刀剣練習所長 美濃國ゥ勢子兼吉 行年七十五」、
表銘に「為羽皐隠史来関記念 明治四十四年春彼岸」とある。

 「同好の愛刀家に見せたるに一人は水心子正秀作ならんという。一人は関の
兼友か兼定かという、また兼次の作に似たりという評なり。 兼吉翁の好意を
謝すると共にこの刀は永く文庫の蔵品とすべし。))

 高瀬翁はいかに高く評価したかが伺える。
 今、この短刀はどこにあるのだろうか?