当支部会員参加による行事日程

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 古式日本刀鍛錬 一般公開
 刀匠、研師、柄巻師、鞘師、白銀師の実演
 会場・関鍛冶伝承館
 1月2日、2,3,4,5,6,7,8,9,11,12月の第1日曜日
 10月は、関市「刃物まつり期間」に開催
 ※現在新型コロナウイルス対策の為、休止中です。


令和2年度「支部活動」日程

支部活動 期   日 会   場
 回定例研究会・総会
 ※新型コロナウイルス対策の為開催自粛
 令和2年 5月30日(土)   関市文化会館
 第2回定例研究会
 令和2年 7月12日(日)   岐阜市南部コミュニティーセンター
 回定例研究会  令和2年 9月13日(日)   関市文化会館
 回定例研究会  令和2年 11月15日(日)   岐阜市南部コミュニティーセンター
 回定例研究会  令和3年 1月16日(土)   岐阜市茜部公民館
 6回定例研究会  令和3年 3月27日(土)   岐阜市南部コミュニティーセンター

※ 研究会に一般参加・見学を希望される方は事前に、住所・電話番号・氏名・年齢・職業を記してお申込み下さい。

申込先 : 〒500-8258 岐阜市西川手四丁目20番 日本美術刀剣保存協会岐阜県支部 
      e-mail houji@pg8.so-net.ne.jp
(当日の飛び入り参加、および反社会的団体に関係する方は固くお断りいたします。)

尚、参加会費は 1,000円/1回 を申し受けます。

 第4回定例研究会

 令和2年11月15日(日)岐阜市南部コミュニティーセンターにて、当支部支部長、近藤邦治氏に講師を務めていただき、第4回定例研究会を開催いたしました。

 1号刀 寸延短刀 銘 長谷部國信


 本作は大振りで身幅広く、重ねが薄い反りのある南北朝期の姿をしており、刃文は皆焼です。

 南北朝期で皆焼を焼くのは相州の廣光・秋廣、山城の長谷部兄弟が代表工であり、本作の様な極端に重ねの薄いものは長谷部のほかに、備中の青江一派、備後の法華一乗くらいでありますが、これらの作に皆焼は見られません。

 長谷部は大和の出身といわれており、地鉄に柾がかったところがあるのが特徴です。本作はその柾がかったところが刃艶で見つけにくいですが、沸の流れている様子を見ますと、

 縦方向に流れています。そういったところから鍛えにそって沸がつられていると気付いていただければ、柾がかっていることが分かると思います。

 また廣光・秋廣と決定的に違うところは棟焼きが非常に長々と入り、ところによっては刃側より焼き幅が広くなっているところです。廣光・秋廣にこういったものはあまり見られません。
 なお国重・國信とでは見極めがつきませんので、今回はどちらに入札いただいても正解といたしました。

 

 長谷部は国重が兄で、國信が弟といわれております。通常兄弟の刀工といいますと、長光と真長、景光と近景のように弟が兄の協力者的立ち位置という場合が多いですが

 兄と比べると弟は技倆で一歩譲るとか、現存作数も少ないといった傾向がみられます。

 それに対して粟田口六兄弟や、幕末の真雄と清麿などはそういった協力関係になく、各自独立して作刀していたと思われています。

 それでは長谷部兄弟がどうであったかというと、作風や技倆、現存作数も伯仲しており、おそらく一緒に行動はしていたと思われるのですが、一つ不思議な点があります。

 それは銘の「国・國」の字ですが、兄である国重は国構えの中を「玉」か「王」としています。

現代では「国」の字は正しい字として認められていますが、昔は俗字といわれる世間で通じるものの、正規の字ではないとされていました。

対して弟である國信は正字の「國」を使用していますが、こうしたことは分家が本家に遠慮して俗字を苗字に使用したという昔の慣習に反しますし、赤坂関の兼元一門でも兼基・兼本・兼茂のように、同じカネモトであっても弟子筋は字を変えておりました。

さらには長谷部國信が熱田神宮に参籠して鍛えた脇指が、重要文化財に指定されていますが、これも兄である国重を差し置いて奉納されたものです。

 こういったことから個人的な想像ではありますが、兄弟の出生順は別として國信が嫡子、国重が庶子だったのではないかと考えています。

 

 2号刀 刀 銘 濃州関住兼㝎作


 長さ二尺一寸ほどで、茎も短く、手持ちの良い、いかにも片手打ちといった姿です。

本作を一目で美濃刀であると見ていただきたいのは樋の形状です。

 美濃刀の棒樋の先端は刀樋にならずにミサイルや鉛筆キャップの先端のようになるものが多く、角留めもきっちりとしておりません。

これを換言すれば手馴れていないということになりますが、本作の樋はまさしくそれに当てはまります。

 また刃文は頭の丸い互の目に尖り刃を交え、谷底に丸みのある美濃丁字の典型を焼いております。

 そのなかで抜群の技量を見せておりますので、ここは素直にノサダに入れていただきたく思います。

 

 兼㝎の作刀期間は文明四年(1472)から大永六年(1526)までの五十四年間に渡ります。そのうち前期の文明四年から明應八年(1499)までの二十八年間はヒキサダ銘を切っています。

 そして明應八年からノサダ銘に変わり、そこから永正七年(1510)までの十二年間は「濃州関住兼㝎作」と切り、それ以降大永六年までの十五年間は「和泉守兼㝎」の受領銘を切ります。

 本作は銘振りからすると、明應末期ころの円熟期の作と思われます。

 

 ここで一つ、通常改銘というのは殿様などから偏諱を一字いただいて変える場合が多いものです。

 兼㝎の場合は二十八年間も「兼定」銘を使用しており、それまでの実績や評価があったであろうと思われますが、さしたる理由もないままそれらをリセットしてしまう「兼㝎」に改銘しています。

 この理由を追及した研究成果を知りませんが、現代の刀工は親方の元で修業したのち、独立して工房を持つことが当たり前になっています。

 しかし戦国時代の刀工というのは生涯親方の元で働くような職方もいたのではないのでしょうか。

また兼㝎という人は甲州出身説があり、生え抜きの関鍛冶とはいえない面もあります。

 これはあくまで個人的な推論ですが、兼㝎という人は兼定工房の一職工であったものの、二十八年間も仕えた(文明四年以前の修業期間は含まれません)ことにより、偶々暖簾分けを許されたのではないのでしょうか。

 そして1号刀の解説でしたように、本流との違いを示すため略字として「兼㝎」を使うことを許されたのではないかと考えています。

 
 3号刀 短刀 銘 表 信濃守國廣 裏 慶長十二二 二月日


 本作は堀川國廣79歳の時の作品です。

 姿は大振りで反りがあり、直刃出来。一見して来國光・来國次あたりに見えますが、違う点は重ねが厚く、持った時にズッシリとした重さがあるところです。

 来國光・来國次あたりですと重ねが薄く、もっと手持ちが良いものです。

そして本作の映りは鎺元からクッキリとした立ち上がりが直線状に上がっていく、つまり水影映りが直映りに変化しているのですが、そういった映りは来にはみられません。

 また刃文も本作は元から先まで比較的均一な幅の直刃を焼いていますが、来であれば後天的ではありますが物打ちあたりが細くなるという傾向があります。

 そういったところから来ではなく、それらを狙った写しものであると気付いていただきたいです。

 なお一般的に来写しの短刀というと美濃物となりますが、美濃物の京写しというのは来國俊や藤四郎吉光あたりを狙ったものが大半であり、来國光・来國次あたりを狙ったものはあまり見たことがなく、稀にあってももっと大振りになり先反りが強くなるという違いがあります。

 また同じく来写しを得意とした肥前忠吉の場合は、刃淵が帯状になるといわれており、これを地元長崎では毛糸のようだと表現されています。

 本作の刃文をみますと、表の中ほどあたりに少し匂口が締まり加減のところがありますが、そういったムラは肥前刀ではありません。

 水影映りも忠吉にありますが、直映りに繋がっているところなどから総合して堀川物とみていただきたいです。

 
 それから堀川物といいますと、よくザングリした肌といわれておりますが、この「ザングリ」という言葉は『京ことば辞典』によれば京都の茶道用語で「おおまかな作りこみがかえって味わいがある」という意味だそうです。

 この「ザングリ」という表現は戦前の刀剣界では使われていない言葉ですが、今は誌上鑑定で堀川物に誘導するために「ザングリ」という書き方がされています。

 従ってすべての堀川物がザングリとしている訳ではなく、本作のような小板目がよくつんだ状態もザングリではありませんので、そういった既成概念に捉われないようにしてください。
 

 堀川國廣は日向伊東家に仕えていましたが、日向が島津に侵略されると、伊東家は没落し國廣は山伏となって放浪します。

そして今の栃木県の足利に逗留したおりに長尾顕長の所持する長義を磨り上げ、ついでにその写しを製作したものが「山姥切國廣」として有名です。

 その後、伊東家は豊臣秀吉の元で再興を果たし、九州征伐で功を挙げて返り咲くこととなりますが、その縁があってか國廣も豊臣家に仕え、作刀以外にも武家奉公をしていたようです。 

 
 4号刀 刀 銘 兼元(孫六)


 鎬幅広く、鎬高く、鎬地の柾目が鮮明で、直刃出来ですから末手掻か美濃とみるべきところです。

 これをぜひ美濃にみていただきたいのは、まず帽子が倒れていることです。大和物でも帽子が返ることはありますが、帽子が倒れるというのは末手掻ではあまり聞いたことがないです。

 そして表裏揃った位置に節刃がありますが、この刃文も美濃の特徴の一つと思います。

 またこれをぜひ兼元と見て頂きたいのは、手持ちが非常に良いというところがあげられます。

 昔の方は手持ちの重たい兼元はそれだけで偽物だといわれるくらいであったと言っておられます。

  そして孫六兼元といえば三本杉が有名で、そういった刃文を焼いたものが多いですが、短刀を中心として直刃もそこそこ焼いており、刀では本作を含めて3~4振りを見たことがあります。

 またその中でも本作は兼元と極めやすい作であったので、今回の入札でも一の札で兼元と入れられた方が3名ほどいました。

 
 5号刀 短刀 銘 表 相模國住人廣光 裏 延文五年卯月日


 姿は大振りで、反りがつき、重ねが薄めの姿から南北朝期の作であると捉えられます。

 鍛えは板目に杢交じえて、少し肌立ち、地景が入る典型的な相州物の鍛えです。

 刃文は皆焼に見えますが、棟は焼いておらず、下半には飛び焼きが結構入っており、刃文一つづつの形が掴みにくいです。

 これを江戸時代の人は狂った刃文と言いました。これは正宗が創始した刃文といわれ、上から下までその刃文であれば正宗といえます。

 本作をぜひ廣光とみていただきたいところは、物打ちあたりに丸い玉を焼いているところで、これを団子丁字と言います。

 この団子丁字は廣光・秋廣が最も得意としたところで、ここで相州物と捉えていただきたいところです。

 
 6号刀 短刀 銘 長谷部国重


 本作は少し小振りですが、重ねが薄いので南北朝期姿と捉えることができます。

 南北朝スタイルで小振りの短刀というと、長義・左文字・兼氏・長谷部が挙げられ、入札もこれらの刀工が目立ちました。

 本作をよくみますと、一号刀で挙げました長谷部の特徴がみられます。

 まず重ねが一段と薄い。それから鍛えが柾がかっている。鍛え肌がみえなくとも沸の流れで柾がかっていることが分かる。

 そして棟焼きが長々と入っているなど長谷部の典型的な作の一つと思います。
 ただ一つ、帽子が尖っている点が長谷部と踏み切れないところですが、元々細身ですし、そのなかで得意とする大丸には焼けないのかなという気がします。
 
 長谷部というと帽子の丸いことが特徴の一つとされていますが、必ずしもそうではなく、丸いものが多いということですので、こういった尖った帽子の作もあると記憶に留めておいてください。

 それと兼氏の入札ですが、柾目鍛えから、同じ大和出身の兼氏という着眼点は良いと思いますが、姿はもうすこしふくらが張り加減であり、こういった乱れた刃文は無銘の極めものばかりで、在銘作には湾れを主調としたものしかないと思いますし、兼氏こそ帽子が尖るものは在銘無銘含めてもありません。

 本来6号刀は鑑定刀ではなく鑑賞刀にするべきかと思いましたが、1号から5号刀までが典型作で簡単過ぎたため一問ぐらいは難問をと加えました。




 第3回定例研究会

 
令和2年9月13日(日)関市文化会館にて、日本美術刀剣保存協会富山支部事務局、山誠二郎氏に講師を務めていただき、第3回定例研究会を開催いたしました。

 1号刀 短刀 銘 表 備前國長(以下切れ)(真長) 裏 徳治三年(以下切れ) 第三十七回重要刀剣

 姿は平造り、庵棟、身幅尋常、重ね厚く、寸延びる。彫刻は表に梵字と三鈷付剣、裏は梵字と腰元に太樋と細樋を掻き流す。
 地鉄は板目肌、地沸つき、地景入り、淡く映り立つ。刃文は小湾れに互の目交じり、総じてこずみ、匂勝ちとなり、ややうるむ。帽子は直ぐごころ、小丸に浅く返る。
 茎は磨り上げ、先浅い栗尻、鑢目筋違、目釘孔二、指表下半中央に四字銘、裏に同じく年記があり、表裏とも途中で切れる。

 本作磨り上げられ銘文が途中で切れているが、深く筋違いとなる鑢目、書体から鑑みて、真長であることに疑いなく、小湾れに互の目が交じり、総じてこずむ作風には、
 真長の特徴がよく示されている。現存する真長の作例中、短刀は稀有であり、徳治三年の年期と共に資料として貴重である。
 本作の彫刻をみていただくと、三鈷付剣の持ち手のところが丸く彫られています。これは備前刀にみられる彫刻の特徴ですので覚えていただきたいと思います。

 2号刀 脇指 銘 表 津田越前守助廣 裏 寛文十二年八月日 第五十五回重要刀剣

 姿は鎬造り、庵棟、棟の卸しやや急、身幅広く、元先に幅差あまり目立たず、鎬低く、重ね厚め、踏ん張りごころがあり、反り浅めにつき、中切先。
 地鉄は小板目肌よく詰み、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、鉄冴える。
 刃文は直に焼出し、その上は大互の目乱れ、互の目、小湾れを交え濤瀾風、足太くよく入り、匂深く、沸厚くつき、総体に細かな砂流しかかり、金筋随所に入り、
 玉状の飛焼かかり、淡く棟を焼き、匂口明るく冴える。帽子は焼深く、直に小丸に返り、先細かに掃き掛ける。
 茎は生ぶ、先入山形、化粧鑢(香包鑢)、目釘孔一、指表目釘孔下の棟寄りにやや太鏨で大振りな七字銘、裏は目釘孔より半字上げて同じく草書の年期がある。

 銘字が角ばったいわゆる角津田といわれるころの作で、もう少し後になると丸津田といわれる丸い銘字に変わります。
 濤瀾刃で名高い助廣ですが、濤欄刃の完成は延宝四年(1676年)ころといわれています。本作は寛文十二年(1672)の年期があり、その頃より少し前の作となります。
 濤欄刃は立ち上がるところが緩やかなものと、急なものが交じっているもののことで、そうでなければ大互の目乱れと呼んで区別しています。
 本作の刃文をみますと元の方に少し緩やかな刃が交じっていますので、全体的に濤欄刃とはいえないですが、濤欄刃の風合いが出てきています。
 他にも玉を焼き華やかであり、匂も叢なくつき、焼き出しがみられ、帽子も綺麗な小丸に返り、地鉄がよく詰み非常に美しいことなどを考えると、大坂新刀の上工とみれると思います。
 
 3号刀
 脇指 銘 表 津田近江守助直 裏 貞享三年八月日 第十二回重要刀剣

 姿は鎬造り、庵棟、身幅広く、元先に幅差あまり目立たず、重ね厚め、踏ん張りごころがあり、反り浅めにつき、中切先。
 地鉄は小板目肌よく詰み、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、鉄冴える。
 刃文は直に焼出し、その上は大互の目乱れ、互の目、小湾れを交え濤瀾風、足太くよく入り、匂深く、沸厚くつき、総体に細かな砂流しかかり、匂口明るく冴える。
 帽子は焼深く、直に小丸に返り、先細かに掃き掛ける。
 茎は生ぶ、先入山形、化粧鑢(香包鑢)、目釘孔一、指表目釘孔下の棟寄りにやや太鏨で七字銘、裏は目釘孔より半字上げて同じく草書の年期がある。
 
 本作は二号刀と比較しても遜色のない、非常に良く出来た助直です。助直は近江国の高木出身で、越前守助廣に作刀を学び、後に妹婿か娘婿になったと伝わる。
 修行の後は生国に帰ったのか、延宝年期の作は「高木住」と切った作が多い。天保二年、越前守助廣の死後は大坂の鎗屋町に住し、元禄六年期の作がある。

 4号刀
 脇指 銘 表 長曽祢興里入道乕徹 裏 (金象嵌銘)寛文五年十二月十六日 山野加右衞門六十八歳永久(華押) 两車截断 第四十五回重要刀剣

 姿は鎬造り、庵棟、身幅尋常、元先に幅差つき、重ね厚め、反りやや深めにつき、踏ん張りごころがあり、中切先つまる。
 地鉄は板目肌に杢交じり、肌立ちごころ、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、鉄冴える。
 刃文は中直刃、僅かに浅く湾れ風、匂深く、小沸厚くつき、小さく砂流し入り、匂口明るく冴える。帽子は直に小丸、やや深く返り、先掃き掛ける。
 茎は生ぶ、先刃上がり栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一、指表の目釘孔に「長」の字をかけて、鎬筋を中心に細鏨の長銘があり、裏に三行にわたって山野加右衛門永久の金象嵌截断銘がある。

 本作は「虎」の字を「乕」と切った、角虎・ハコ虎といわれる作です。
 長曽祢興里といえば初期は瓢箪刃、後期は数珠刃が有名ですが、本作は興里としては比較的珍しい直刃ですので、入札鑑定としては難物であったと思います。
 興里がこの種の作柄を手掛けた場合、匂口が締まりごころとなるのが通例ですが、この作はそれと相違して匂深で、小沸が叢なく厚くついています。
 珍品ですが、こういった作もあると覚えていただきたく思います。
 なお刀剣美術の五一七号の誌上鑑定に本作と同時期の金象嵌銘があり、直刃出来のよく似た興里の刀が出題されております。

 5号刀
 脇指 銘 表 正秀(華押) 裏 寛政四年八月日

 姿は鎬造り、庵棟、身幅尋常、元先に幅やや開き、重ね厚め、反りやや深めにつき、踏ん張りごころがあり、中切先で、平肉が乏しい。
 地鉄は板目肌に杢交じり、肌立ちごころとなり、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入る。
 刃文は広直刃に浅く湾れ、沸・匂深く、荒沸つき、喰違い刃に湯走り状の刃交じり、匂口に広狭があり、金筋・砂流しかかる。帽子は直に丸く返る。
 茎は生ぶ、先刃上がり栗尻、化粧鑢、目釘孔一、指表目釘孔にかけて二字銘と華押、裏は目釘孔より上げて年期がある。

 本作は水心子正秀の脇指でした。水心子正秀は晩年には復古刀論を唱え、専ら備前伝に取り組んでいますが、それまでは主に大坂新刀の写し物を作刀しています。
 また大坂新刀写しの作は出来が優れ、中でも寛政・享和ごろの作はその最盛期にあたります。
 本作も入札鑑定としては難物で、井上真改や南紀重國といった札がありましたが、そうみられるのも無理はないと思います。
 ですがそれらの刀工と相違するところを挙げるとすれば、本作は僅ですが平肉が乏しいところ、中ほどに地にこぼれる様な荒沸がつくところ、
 そして井上真改や南紀重國であればもう少し匂が深くなるところかと思います。
 

 第2回定例研究会

 令和2年7月12日(日)岐阜市南部コミュニティーセンターにて、当支部支部長、近藤邦治氏に講師を務めていただき、第2回定例研究会を開催いたしました。

 1号刀 脇指 銘 表 紀州明光山文殊九郎三郎重國 元和七年二月日 裏 應松平志摩守重成公命 (重要美術品指定)

      鎬造り、庵棟、元先の幅差が目立たず、刀をそのまま短くしたような姿、鎬やや高く、平肉つく。地鉄は小板目よく詰み、明るく冴え、底に地景が沈む。
      刃文は小沸出来の浅い湾れと直刃を基調に、節刃を交え、表裏とも物打ち下で喰い違う。帽子は湾れ込んで先小丸に短く返る。
      茎は生ぶ、刃方棟方とも角、先浅い栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔がやや大きい。

      南紀重國の作風には相州伝と大和伝の二通りがあるが、本作は大和伝を基にしており、脇指ながら重要美術品に唯一指定された名刀である。
      重國は駿府で徳川家康に仕えていたが、家康没後は十男頼宣の抱え工となり、元和五年に頼宣が紀州へ転封になると、これに付き従っている。
      本作は転封後初の年紀作であり、注文主の松平志摩守重成は、ともに家康のもとで仕えていた大身旗本であった。
      なお和歌山に明光山という地名はなく、和歌浦の旧名を明光浦といったので和歌山の当て字と思われる。
      入札には肥前の忠吉の札も見受けられた。
      確かに忠吉には大和物を狙った作があり、地鉄も小沸が深々とつくものがあるが、これほどに冴え冴えとした明るい地刃は見かけない。

      
 2号刀
 短刀 銘 来國光 (水戸徳川家伝来)

      姿は平造り、真棟、身幅やや広く、重ね薄め、彫りは表裏とも香箸を掻き流す。
      地鉄は小板目詰み、僅かに肌立ちを交え、地沸つき、沸映り立つ。刃文は中直刃、小沸よくつき、細やかに金筋かかる。帽子は直ぐに先小丸。
      茎は生ぶ、先栗尻、鑢目切。

      大振りで重ねが薄く、反りのない姿から鎌倉末期乃至南北朝初期の作とみられる。
      沸映りが立ち、やや荒れごころの交じる地鉄と、刃中の中ほどに金筋が集中し、京逆足がみられる点から来派と捉えられる。
      来國光と絞り込む特徴は物打ち辺りの刃幅が狭くなる点であり、直刃出来であるということから来國次の札は余程の確信がない限り避けるべき。


 3号刀
 太刀 銘 濃州正光 『室町時代美濃刀工の研究』所載

      姿は鎬造り、重ね厚く、やや低い庵棟、腰反り深く、先にも反りつき、小切先、平肉つく。表裏ともに両チリの棒樋を掻き通す。
      地鉄は小板目に小杢目を交えて詰み、淡い乱れ映りが立つ。刃文は直刃に箱がかった節刃を間遠に繰り返し、処々小沸つき、鼠足とささやかな金筋、葉がかかる。
      帽子は表弛みごころに先掃き掛け、短く返り、裏は焼き詰めて、沸筋が地に絡む。
      茎は生ぶ、表は茎尻の面を取り、刃上がり栗尻、裏は入山形、刃方面取り、棟方中肉、鑢目勝手下り。

      小切先の太刀姿であるが、物打ちが張っており踏ん張りの弱いところから室町時代前期作と捉えられる。
      本作は表裏揃った節刃を盛んに焼いているが、節刃は美濃物に限ったものではないものの、
      美濃物の特徴とされている。そうした中で室町時代前期となると善定兼吉辺りに限られてくる。
      正光は京都達摩派の鍛冶であるが、正長頃に蜂屋庄へ移り住んだといい蜂屋関、別名蜂屋達摩の始祖となった。
      達摩派の名称は、始祖の正宗が達摩入道正宗と名乗ったことに由来するというが、禅門の高僧と同じ名を入道名としたとは到底考えられず、五郎入道正宗の韻を踏んで       いると考える。したがって通説にいう綾小路住ではなく、『校正古刀銘盡』の京都達磨住人説が謂れの基と思われる。
      本工は現存数が殆どなく、個銘を当てるのは難しいので室町時代前期の美濃刀とみていただければ十分。

 4号刀
 寸延短刀 銘 康光 『刀剣美術610号』所載

      平造り、庵棟、重ね厚く、大きく寸伸びてフクラやや枯れる。
      彫りは表裏とも刀樋を掻き通す。
      地鉄は板目に杢目を交えて処々流れ、やや肌立って地沸つき、地景かかり、棒映りが立つ。
      刃文は直刃に湾れごころがあり、刃縁小沸つき、鼠足、逆足が入る。帽子は直ぐに先突き上げごころとなり、やや深く返り、裏の返りは寄る。
      茎は生ぶ、先栗尻、刃方棟方とも角、鑢目勝手下り。

      大きく寸伸びて、重ねの厚い姿から応永頃の作であると捉えられる。地鉄には応永備前の特徴といわれる応永杢が見られ、棒映りも鮮明に立っている。
      棒映りは景光や兼光にも見られるが、これらはどこかに刃文の頭から匂いが尖って映りに繋がっていく風がある。しかし本作にそうした景色は見受けられず、僅かに段映り      のような箇所があり、刃中には逆足が交じって青江気質を帯びている。そういったところから応永備前の中でも素直に康光と見ることができる標本的な作である。


 5号刀
 刀 銘 表 濃州関住人兼綱作 裏(金象嵌銘) 慶安元戊子年三月十日貮ツ胴切落 山野加右衛門永久 華押 

      鎬造り、やや低めの庵棟、鎬幅広く、鎬高く、平肉つく。
      地鉄は板目、棟寄り鎬地は大板目が肌立ち、刃寄りは流れ柾となって詰み、乱れ風に映り立つ。
      刃文は直刃を基調に節刃を交え、刃縁にほつれごころがある。帽子は表が地蔵、裏は中丸、先に小節がつき、僅かに沸づいて掃き掛け気味。
      茎は生ぶながら若干区を送り、先刃上がり栗尻、茎棟中肉、刃方面取り、鑢目鷹羽、棟鑢は筋違い。

      鎬幅広く、鎬が高いのは大和ものの特徴であるが、太刀姿ではなく打刀姿であるので美濃ものと見て頂きたい。これが末手掻であれば鎺元辺りの鎬幅は広くても、先へいく      とそれ程でもない傾向があり、先反りも目立たない。
      本作も直刃を基調としているが、節刃を焼いているので末関と捉えるのは容易であり、一段と技量の高いところから、素直に兼㝎と見ていただきたい。
      なお本作は兼綱と刻銘されているが、銘振りは文亀から永正にかけての兼㝎と同じであり、同工の代作代銘と考えられる作である。
      入札は善定兼吉の札が目立ったが、兼吉なら太刀姿のはずであり帽子も善定帽子とは異なっている。
      なお本刀には金象嵌の切落銘があるが、製作されてからずいぶん時代を経て試されている稀有な例である。
      ちなみに截断を「さいだん」と読むのは誤りである。武器を意味する斧旁と、死者の魂を冥界に連れ去る凶鳥のふるとり(隹)を組み合わせた文字には斬罪の意味が籠めら      れおり、「せつだん」と読むのが正しい。
      また截断と混同される裁断(さいだん)は布裂を裁ち切るから衣編がついているのであり、全くの別字である。


なおこの日、徳川四天王本多平八郎忠勝の末裔である本多葵美子さんの特別参加があり、徳川家康と紀州、水戸両徳川家にゆかりある名刀を熱心にご覧になられました。



令和元年度「支部活動」


平成30年度「支部活動」


平成29年度「支部活動」

平成28年度「支部活動」

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平成26年度「支部活動」


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