当支部会員参加による行事日程

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 古式日本刀鍛錬 一般公開
 刀匠、研師、柄巻師、鞘師、白銀師の実演
 会場・関鍛冶伝承館
 1月2日、2,3,4,5,6,7,8,9,11,12月の第1日曜日
 10月は、関市「刃物まつり期間」に開催
 ※現在新型コロナウイルス対策の為、休止する場合があります。


令和3年度「支部活動」日程

支部活動 期   日 会   場
 第1回定例研究会・総会
 令和3年 5月22日(土)   せきテラス
 第2回定例研究会
 令和3年 7月3日(土)   岐阜市南部コミュニティーセンター
 回定例研究会  令和3年 9月19日(日)   関善光寺
 回定例研究会  令和3年 11月13日(土)   岐阜市南部コミュニティーセンター
 回定例研究会  令和4年 1月15日(土)   岐阜市南部コミュニティーセンター
 6回定例研究会  令和4年 3月19日(土)   茜部公民館

※ 研究会に一般参加・見学を希望される方は事前に、住所・電話番号・氏名・年齢・職業を記してお申込み下さい。

申込先 : 〒500-8258 岐阜市西川手四丁目20番 日本美術刀剣保存協会岐阜県支部 
      e-mail houji@pg8.so-net.ne.jp
(当日の飛び入り参加、および反社会的団体に関係する方は固くお断りいたします。)

尚、参加会費は 1,000円/1回 を申し受けます。


 第6回定例研究会

 
令和4年3月19日、茜部公民館にて岐阜県支部副支部長、若原利彦氏に講師を務めていただき、第6回定例研究会を開催いたしました。


1号刀 脇指 銘 長曽祢興里入道乕徹


脇指の姿は捉えにくいが、反りがやや浅く、中切先の体配から寛文新刀の範疇にあるといえます。

寛文新刀の代表的な刀工は、大坂の津田助広、井上真改、江戸の虎徹などが挙げられますが、濤乱刃、簾刃、拳形丁子などの刃文が流行した大坂に対し、江戸では互の目の刃文が流行しており、本刀は焼き幅広く起伏の浅い直ぐ互の目を焼き、短いながらも刃幅の均等な江戸焼出しがみられることから江戸新刀へと導かれます。

鍛えは地沸が厚く付いて精良であるが、指し裏腰元にいわゆるテコ鉄といわれる異鉄が露呈しています。また刃文にも太い足が入り、乕徹の特色が顕著であります。

一般にコテツの作風は、寛文4年6月までの虎徹(ハネトラ)期と同年8月以降の乕徹(ハコトラ)期に大別することが出来ます。

前者は、互の目にのたれを交えて焼きに高低がある大小の互の目が連なってひょうたんを割って横にしたような「ひょうたん刃」を交えるもので、後者は、互の目の頭が揃って連れた、所謂「数珠刃」が特徴であり、本刀はハコトラ期の作域であることが分かります。

従って本刀のような作例に際してはハコトラと明記して入札することが望ましいです。

本刀は国連難民高等弁務官であった緒方貞子氏の舅(しゅうと)で、自民党副総裁を務めた緒方竹虎氏の旧蔵品であり、刀工銘、所持者名共に虎の字が入り、本年の干支と合わせてトラ尽くしであります。


2号刀 太刀 銘 忠重(古備前)


細身ながら、腰反り深く、踏ん張りがあり、先に行って伏さりごころとなり小切先に結ぶ姿から鎌倉時代初期を降らぬ太刀と見ることが出来ます。

鍛えは、板目に杢を交じえて幽かな映りが立ち、小沸出来の直ぐ互の目を基調にして、ごく浅い湾れが加わる技巧性のない刃文に腰刃を焼いているところから古備前と鑑することが妥当です。

映りは中程で幽かに立ち、腰元から立つ水影風の映りに繋がっていますが、古備前には本作のように映りが目立たないものもあり、これが古一文字になるとその殆どに映りが立ち、鎌倉中期の福岡一文字派の吉房、助真、更に長舩の長光などは乱れ映りが鮮やかに立ってきます。

本作は古備前の忠重ですが、古伝書には『古刀銘集録』に(1232~1233年)の備州長舩住忠重の同銘異工を挙げるのみで、いわゆる銘鑑漏れの刀工であり、ほかに現存するものを見ません。

この太刀は生ぶ茎在銘で腰反りの高い優美な太刀姿を呈し古雅で出来が優れ、資料的にも貴重であります。

なお、古備前の吉包に本作と酷似した作例があり、何らかの繋がりがあったと見なされています。


3号刀 脇指 銘 繁昌


身幅が広く、重ねがやや厚く、先反りついてズングリとした寸延び短刀姿であります。

こうした姿は埋忠明壽や南紀重國、越前康継などにも見られるように慶長期に流行しました。

鍛えは、大板目に地沸がついて太い地景が入り、いわゆる松皮肌となっています。

刃文は、浅い湾れを基調に互の目を交えよく沸づき、ほつれ、砂流し・金筋入り、島刃状に沸凝り、湯走り頻りにかかるように正宗を髣髴とさせています。

これら特色のある地刃の様相をあらわす刀工となれば、繁慶及びその一門の繁昌が挙げられます。

また、三ツ棟に造り込み、且つ棟のおろしが急である点も極めどころとなっています。

通常、これらの作風をして繁慶同様、越中の則重に範を求めたものと流布されていますが、二、三の相似する様相は別として、一概に則重に私淑していたとするには些か首肯し難い雰囲気があり、広義的に相州上工と参酌した作域と観るのが相応と思われます。

入札は、志津写しと見て国広の意見が散見されましたが、前述したとおり正宗写しと見ていただきたい。

繁昌は、繁慶門下にして寡作の工であり、刀は未見であり、僅かに短刀4口、及び本作の脇指が1口にとどまると言われていますので、向こう槌に徹していた人であったかもしれません。

作柄は繁慶に近似するも寡作ゆえ本作を繁昌と特定することは至難であることから、繁慶の札であっても当り扱いとしました。

強いて言えば、僅かな事例で早計かもしれませんが、繁昌の手癖としては区際の焼き込みが見られるものであり、鍛えも鉄砲鍛冶出身の繁慶のような肌割れが入ることがなく上手であります。


4号刀 刀 銘 兼則


腰反り深い姿をしていますが、先反りが加わっており、戦国時代の刀姿と捉えられます。

棒樋が彫られて特徴的な鎬柾が見られませんが、鮮やかに立つ焼き出し映りは末関の手癖でもあり、やや鎬高であるところと手持ちが軽く感じる点からも美濃へと収斂されます。

刃文は谷底が丸い互の目に所々尖り刃を交えており、これだけならばノサダに見紛います。

しかし物打ちにある頭が揃って連れているような景色は、ノサダに見ることは無く、ノサダに次ぐ技量のヒキサダ、兼常やこの兼則と見ることが好ましいと思います。

また時代相も永正から大永にかけて活動した兼㝎に対し、この兼則は天文ころに円熟期を迎えているので一世代ぐらいの年代差があります。

古伝書や銘鑑によると、兼則は南北朝時代から室町初期の応永にかけて存在したことが記され、事実応永を降らぬと鑑せられる二字銘の太刀が存在します。以後暫く作刀はみませんが室町後期の永正・大永頃と鑑せられるものが散見されるようになり天文をピークにして作刀があります。

末関の兼則の作風は、単純な互の目、互の目乱れの華やかなもの、直刃とその作域は広いが、とくに互の目乱れの華やかなものに出来の良いものをみます。


5号刀 寸延び短刀 銘 正重作

平造り、身幅が広く、重ね尋常、寸延びた短刀姿から時代は室町末期と押さえられます。本作は、板目に杢交えて流れ地沸がついてやや肌立ち地景かかる冴えた鉄をしており、表裏の刃文が揃い角がかった箱乱れ状の刃を焼き、起伏が激しく谷底が低いことから村正あるいはその一門の正重の作とみることが出来ます。
二代とされている村正と正重は、伊勢国千子一派の同門で兄弟とも称されており作風は近似していますが、一般に正重は村正以上に地鉄の肌立ちが目立ち、しかも刃沸が強く厚く沸づいて金筋・砂流しも一際現れるものが多く見受けられるもので本作も盛んに沸づき沸筋が長々と地刃に絡む態がみられることから正重とみていただきたい。

この相州伝的色彩の強い作柄が正重の特色であり、一つの見所となっています。

入札では、多くの方が上記の特徴を捉えられて同門の村正に入っておりました。


 第5回定例研究会
 
 
令和4年1月15日、公益財団法人日本美術刀剣保存協会より武田耕太郎学芸員に講師としてお越しいただき、岐阜市南部コミュニティーセンターにて、第5回定例研究会を開催いたしました。
 また当支部会員の山田真也氏が、2021年度現代刀職展において刀装の部と柄前の部の両部門にて日本美術刀剣保存協会会長賞を受賞されたことを讃え、当支部から記念品として近藤邦治支部長製作の兼元の全身押形額装を贈呈しました。


 1号刀 刀 銘 主水正藤原正清

 手に持った時の重さ、手持ちの良さと刃肉がたっぷりついている点などを見ると薩摩刀の特徴がよく出ています。
 また刃文を見ますと芋蔓や沸筋であったり、沸で尖った刃といった薩摩の特徴が出ています。
 薩摩の刀の中でどこに入札するかとなりますと、正清や正良あたりに札が入るかと思います。
 正清に比べると正良はより豪壮となった姿が多くなり、刃文の焼きにも高低があります。焼き頭に現れる金筋や芋蔓などに関しては正清の方が多くみられます。

 2号刀 太刀 銘 正則/應永三十□年(重要刀剣)

 出雲に移った吉井派の分派、雲州道永派の正則です。
 小互の目が連れた単調な刃文をしており、地にその刃文を鏡写しにしたような吉井独特の映りが立っています。
 室町初期の吉井にしては刃に金筋や砂流しが入って沸が強くついており、無銘であれば古吉井とも捉えられるような古い作域を表した作品となっています。
 古吉井から吉井になるにつれて匂いがちになっていく特徴がありますので、ちょうど境にあたるような作品ではないかと思います。

 3号刀 太刀 銘 □州長舩兼光(重要刀剣)

 長舩兼光の太刀です。鎌倉時代末期から南北朝期にかけての少し大人しめの体配をしておりますが、腰にも反りがしっかりとついています。
 2号刀と一見同じような刃文を焼いていますが、映りを見てみるとかなり違うという点を意識して比べていただければと思います。
 小互の目に関しても、吉井に比べて部分的に角互の目が見て取れます。景光の短刀のように上から下まで全てが角互の目になっているわけではありませんが、部分的に入った角互の目を捉えて、一の札が難しくとも徐々に答えに近づけていければ良いと思います。
 輪反りと見られて雲類の札も多くありましたが、雲類であれば映りに明瞭な黒い地斑が現れてきます。
 長光や景光の札もありましたが、景光であればより鍛えが綺麗になります。
 本作は完璧な角互の目ではないものの、角互の目が確認できる時期という点を考えますと長光の薙刀や景光の短刀といった一部の作品に限られます。長物で整然と上から下まで角互の目を連ねる出来は兼光からになりますので、その辺りの時代の流れを捉えていただければと思います。
 元重の札もありましたが、元重であれば角互の目が少し横に間延びしたような刃文であったり、帽子が表裏共先に尖る特徴が見られます。

 4号刀 刀 銘 備前國住長舩与三左衛門尉祐定作/天文二二年二月吉日(重要美術品)


 与三左衛門尉祐定の刀です。いつもより少し寸が延びており、反りも強くついていますので時代を捉えるのが難しかったのではと思います。
 ただ3号刀と比べると、腰でもある程度は反っていますが、先反りが強くつき、やや切先がのびごころという点が見て取れます。
 また應永備前や、それよりも前の時代と比べて、焼きが高い点に特徴がよく表れていると思います。
 そして刃文構成を見ますと腰が開いた複式互の目を焼いており、末備前の特徴が出ています。
 出来の良い末備前で鍛えも綺麗、やはり長舩正系の祐定と捉えていただいて良いのではないかと思います。
 勝光の札もありましたが、勝光であればより丁字主体で華やかな刀が多いように感じます。

 5号刀 刀 銘 備前國住長舩五郎左衛門尉清光作/天文廿四年八月吉日(重要刀剣)
 五郎左衛門尉清光の刀です。健全で手に持った時にずっしりと重いので、新刀に札が入ることが多いです
 4号刀と同じように鋒が延びごころで先反りが強くついていて、焼きも高くなっていますので末物の特徴がかなり表れている刀ではないかと思います。
 やや皆焼状になっていますので、刃文が捉えづらい部分があるかと思いますが、葉や湯走り、飛焼を除いて考えてみますと末備前の腰の開いた刃文というのが確認できます。
 末物で皆焼を焼く刀工には高田などがいますが、淡く立った映りや腰の開いた刃文から末備前にいけたら良いかと思います。
 清光は直刃調の寂しい出来がイメージされますが、播磨の豪族赤松氏が招いて鍛刀させた龍野打ちに関しては棟焼や飛焼が入った皆焼状となった刀が多いです。
 そうした中でも清光の特徴はしっかり出ておりまして、とくに物打ちなどに直刃のときに見られる葉、足になり切れていないような形の清光の手癖が見て取れます。

 第4回定例研究会

令和3年11月13日、株式会社舟山堂より稲留社長に講師としてお越しいただき、岐阜市南部コミュニティーセンターにて第4回定例研究会を開催いたしました。


1号刀 寸延短刀 銘 光世


光世は加賀前田家に伝わった大典太が有名ですが、平安時代末期まで遡るとされる現存確実作はその一振りだけで、大半は時代が下がったものばかりです。
本作もその内の一つで、姿は大振りで身幅広く、ごくわずかに反りがあるが、重ねが厚いので鎌倉末期と見られています。
直刃を焼いて出来もよいので、来と見紛いがちですが、来の細直刃は極端な研ぎ減りによるものが多く、大半は物打ち辺りが目立って細くなるものであり、これほどに減っていればどこかにゆるんだ地鉄が現れることが多いです。
また匂いロも締まったところと、沸づくところが交互しており、金筋も目立って掛からないところなどに違いが際立ちます。

光世の作風は太く浅い棒樋や刀樋を好んで彫るとされており、本作にもそれがありますが、現存数が極めて少ないため、それ以外にはこれといった特徴は知られていません。
そのためズバリ光世とは札が入れられないので、目と鼻の先にいた延寿一派と見ていただけければ当り扱いとしました。
延寿と光世は肥後と筑後で隣国になるが、延寿の活動地である菊池と光世の活動地、三池とは直線距離で30kmほどしかなく、細直刃を焼いて、ほつれや喰い違い刃があるなど、特に國資と似通ったところに、技術交流があったとは言えないまでも、共通した地方色が出ていると思います。

2号刀 短刀 銘 長谷部国重


長谷部国重の短刀です。平造り三ツ棟で身幅が広く反りがあって、重ねの薄い典型的な南北朝期の姿をしています。
鍛は板目肌に流れ肌交じり、刃文は沸の良くついた皆焼になっています。この時代の皆焼は相州の秋廣、廣光それから長谷部にあります。
長谷部と秋廣、廣光の違いはよく似ているんですが特に違うところは長谷部が鍛えの板目が流れるところがあり、この短刀も棟の方にかなり流れたところがあります。もう一つは帽子で相州ものは先が尖って突き上げてかえります、長谷部は丸く返るというところだと思います。これは表の方は丸く裏は佩きかけています。秋廣、廣光は尖って佩きかけるという風になります。そういうところを見て頂ければよいと思います。
また相対的に相州秋廣、廣光は地鉄が明るく、長谷部は黒いかねが混じっています。どちらにしても健全で出来の良い短刀であります。

3号刀 脇指 銘 備州長舩勝光/文明十五年八月日

備前長舩の勝光です、文明十五年(西暦1483年)の年号入りです。中心は手入れがよくないですが刀の出来としては非常にいいものです。
反りが高く特に先反りが強いです。これは室町時代に流行した脇指の姿で、地鉄は小板目が良く詰んでかすかに映りがあります。
刃文は直刃で末備前には直刃は多いですがいつもの直刃に比べると匂い口が明るいです。刃中の二重刃や食い違い刃、匂いの中に細かに沸がついています、それから帽子を深く焼いた一枚帽子になっています。こういう帽子は末備前に多く、忠光などによくあります。
良く詰んだ地鉄に映りがあることと一枚帽子で末備前に見ていただければ良いと思います。

4号刀 脇指 銘 和泉守藤原國貞

和泉守藤原國貞は親國助とともに新刀界の巨匠堀川國廣の高弟にあたります、そして親國助、そぼろ助廣らとともに大坂新刀の先駆け的存在です。
この作品は鎬づくり庵棟で身幅広く重ね厚くがっちりとした造込みをしています。
鍛肌は板目肌が詰み、綺麗ないかにも大坂新刀の地鉄をしています。
刃文は大坂焼き出しで、湾れに互の目を交え沸足入り、匂いロは沈みごころになっています。大坂焼き出しがあって匂い口が沈むところは親國貞の見どころになっています。
それから親國貞には良く棟焼きの入るのも見どころの一つです。そして慶長から寛永頃の脇指はこの作品のように比較的短く一尺五寸前後のものが多くみられます。

5号刀 短刀 兼國作

この短刀は地元美濃の室町末期の作品です。姿は平造庵棟の普通の造込みでやや反りがあります。
地鉄は板目肌に流れ肌を交え、鮮明な独特の美濃映りが出ています。刃文は変化のある直刃を焼いていて食い違い刃、それから小さい互の目を交えています、刃中は沸出来になり、よく沸がついています。帽子は表掃きかけて火炎帽子裏は地蔵風になっています。
この兼國は銘艦によりますと美濃三阿弥派の系統をひいていて天文頃の作と思われます。これは地鉄の流れ肌と美濃映りそして地蔵風の帽子で末関の刀工に入れていただければいいと思います。

鑑賞刀 脇指 銘 紀州明光山文殊九郎三郎重國 元和七年二月日/應松平志摩守重成公命


紀州移転後では最も古い年紀といわれ、重要美術品に指定されている。

鑑賞刀 短刀 銘 金重作

『土屋押形』所載、藤原氏一条家旧蔵。第十八回重要刀剣指定。


 第3回定例研究会
 
令和3年9月19日、関善光寺にて岐阜県支部副支部長、若原利彦氏に講師を務めていただき、第3回定例研究会を開催いたしました。

1号刀 太刀 銘 正恒  

姿は腰反りで、先へいって反りが弱くなり、細身ながら踏ん張りがあって、小切先に結ぶところから平安末期から鎌倉初期を下らない太刀と捉えられ、姿に優雅さが見られます。
鍛えは小板目が精良に練れており、鮮明な地斑映りが鎬まで届いています。鎬地に磨き棒がかけられていなければ鎬筋を超えて地班映りが出ていると思われます。このような地班映りは藤末鎌初の古い様式の映りです。
刃文は直ぐ調に小乱れ、小互の目を交え、沸づいた葉と小足が入ります。佩表に焼き落としもあって、古調で、技巧性はあまり感じられません。
こうしたところから古備前で、かなりの上出来と捉えることが出来ます。
本刀は、鍛えが良いことから古備前中随一といわれる正恒へと素直にもっていけると思います。
なお本作は茎の反りを伏せてしまっていますが、雉腿形に仕立てられて古雅であり、ほとんど生ぶの状態に近い点が好ましく貴重であります。

刃文が先に行くにつれ小模様になることから長光の札もありましたが、長光は鎌倉中期から末期の刀工であり、まず姿が違います。また、頭の丸い丁子を焼く特徴があります。
ちなみにこの太刀は土佐藩筆頭家老であった深尾男爵家の旧蔵品であり、重要美術品指定を受けています。

2号刀 脇指 銘 備州長舩長吉/永和二年五月日  

平造りで寸延びた小脇指姿は應永期に流行しますが、反りが浅く、身幅広めであるところは元重や長義、倫光などに同様の姿を見ることができ、南北朝最末期の姿と捉えられます。
鍛えは板目に杢交えてよくつみ、棟寄りに高く、ごく幽(かす)かに映りが立っているので備前と絞られます。
また、地景がからんで、匂い口の沈んだ互の目はよく沸づき、湯走りも掛かっているところから相伝備前と見ることが出来ます。
相伝備前の旗頭である兼光一門は湾れを主調に焼いており、映りも棒映りか明瞭な乱れ映りとなるものが多く、帽子もこれほど乱れ込むものはありません。
残るは長義一門ですが、小互の目を連ねる作風は長義の兄といわれる長重が手癖にしており、銘鑑によれば長吉はこの長重の門下とされています。長重には本阿弥光徳の指料と伝えられる国宝の短刀もございます。
長重の作風を踏襲している作例といえ、総体的にも長義の作域に近いものが見られ、茎の仕立てと大振りに切る銘には長義を思わせています。
本作は本日一番の難題であり、もちろん長吉と入札できるものではありません。
従って長吉と同時代で、ほぼ似通った作風も有る小反りは当りと致しました。
なお應永備前となるともう少し先反りが目立っており、刃文も匂い口が締まった複式互の目が中心となり、映りは棒映りとなる違いがあります。
また應永姿のものは簡素でも彫りが施されたものが殆どであり、そこが應永信國にも通じる時代色といえます。
應永信國は一理ある見方といえますが、互の目が二つずつ連れる特徴があり、足が太く谷底に砂流しがからむ手癖とほとんどの作に彫物がある点に相違があります。
本刀は、第27回の重要刀剣に指定されています。

3号刀 刀 銘 兼房作  

身幅がやや広く、先反りが強く、中切先が延びごころとなっており、末古刀でも桃山期に差し掛かる頃の姿をしています。
鎬が高く、鍛えに柾気が目立つので末手掻か末関が候補に挙げられますが、帽子に大和気質がなく、下半に美濃映りが見られるので末関と捉えることが出来ると思います。
兼房は蛸の頭を並べたようなと形容される互の目乱れを得意としますが、直刃出来も稀に見ることがあり、美濃映りを伴っています。
しかし兼房と絞り込めるだけの特徴は見出せないので、兼常など直刃を得意とした同時代の末関諸工に見て頂ければ結構だと思います。
ただし善定兼吉は活動時期が室町時代前期であり、末関のくくりには含まれませんので、兼吉との入札には後代という補足がなければ名工と評される初代作とみなされます。
孫六兼元はほとんどの作に鮮明な地斑映りを伴うことが多く、直刃出来では匂い口がよく締まっており、これほど強く沸づくものはまず見ません。
兼㝎には大永以降沸づくものも見られますが、刀の場合に限って直刃では互の目や小足を交える手癖があり、来を髣髴とさせる出来をしています。
また、大道は姿が一段と大振りになり、元先の身幅差も少なく、切先も大きく伸びた慶長新刀の先駆け姿をしています。短刀・小脇指を除けば純然たる直刃を焼いたものを見ません。
刃文から肥前刀と見がちでありますが、肥前刀は小糠肌といわれる一段と製錬された鍛えをしています。刃文も毛糸のようなと形容されているように、上から下まで均等に刃沸が付く点に違いがあります。

4号刀 脇指 銘 備前國長舩住忠光/文明十九年八月日  

二尺に僅かに届かない大腰刀です、先反りが強い姿は戦国時代特有のスタイルであり、薬王寺や下原康重、孫六兼元などにも同様の作例を見ることが出来ます。
しかし鍛えに杢目が目立ち、直ぐ映りが立っていますので末備前と見るのが自然であり、切先一面に掛かっている地斑も室町時代の備前ものに出る特徴の一つに加えられています。これとそっくりな地班は康光の脇指(平造り)にもみられます。
末備前で直刃を得意とした有名工は、忠光以外には宗光、祐光、清光などが候補に挙げられますが、宗光は鎬造が多く、短刀を除いてほとんどの作に彫物があり、直刃の場合は帽子の返りも長くなるものが多いという特徴があります。
清光には丸棟もありますが、中直刃から広直刃に焼くものが殆どで、葉が長々と入ることを特徴としています。
ほかに應永備前の康光、盛光などは平造の場合ここまで長いものは無く、大半は一尺五寸程度までであり、先反りもこれほど深くはならない違いがあります。また映りも明瞭な棒映りとなり、技倆の高さが感じられます。
なお丸棟は地方鍛冶作に多いとする刀剣書がありますが、大平造の場合は丸棟にすることが多いので、大平造が草の造込みであるという位置づけにあるものと思われます。

5号刀 刀 銘 兼元

元先の身幅差が目立たず、中切先が延びて平肉が枯れています。二尺一寸強ながら長寸に感じられるのは兼元の特徴であり、手持ちが軽く感じられるのも兼元らしいところです。
美濃ものには珍しく重ね彫が一面に施してありますが、指表の剣の彫物の下につく爪は2019年の支部カレンダ-の兼元の太刀にもあったので記憶されている人もあったのではないかと思います。
鍛えは板目に杢を交え肌立って流れていますが、映りが立っておらず、姿も慶長姿に近いので、孫六よりは一世代若い兼元であろうと思われます。
しかし刃文は家伝の三本杉を焼いており、規則性の目立たないところや刃文の谷が刃寄りに低いところには古刀期の名残を見ることが出来ます。
孫六は天文七年二月までは赤坂を活動地にしており、それ以降は関へ移住したというのが通説になっていますが、その説に従うならば本作は関で鍛刀された後代の初期作になります。
ただし技倆は孫六に肩を並べて遜色なく、最近まで孫六として通用していたものであり、中津川市の重要文化財にも指定されています。棟を長々と焼いている点は孫六には見ない景色であり、さらに重ね彫りも孫六には見られないものです。

 第2回定例研究会

 令和3年7月3日、岐阜市南部コミュニティーセンターにて公益財団法人日本美術刀剣保存協会学芸部調査課長、大井岳先生に講師としてお越しいただき、第2回定例研究会を開催いたしました。 

1号刀 脇指 銘 加藤長運斎綱俊 天保十二年二月日

(刀剣美術649号より引用)

身幅が広く鋒が延びており、重さがあるので慶長前後ないし新々刀と捉えられます。

地刃の様相は瑞々しい感じがあり、鍛えは小板目がよく詰み無地鉄風となります。そうした所も踏まえて新々刀と見ます。比較的起伏が目立つ丁字と小互の目が連れた刃文で、型押しとよばれる型を使って土置きをしたような、三寸三分ほどの間隔で繰りかえす刃文を焼いています。

新々刀の丁字乱れで一番初めに繰り返す刃文を使い始めた人となると、長運斎綱俊や弟子の固山宗次、泰龍斎宗寛と見ることができます。

固山宗次に焼き出しはほとんどなく、長運斎綱俊にはあると言われていますが、今作に関しては特徴が出ていないため、一番考えやすいのが固山宗次です。

泰龍斎宗寛という札もありました。固山宗次と長運斎綱俊はあまり映りが目立ちませんが、今作には少し映りがあるので、そこを捉えられたのかと思います。叢沸についても、時代が下がった泰龍斎宗寛には見られますが、もう少し起伏の少ない小模様な刃文の場合が多くなります。

帽子についても固山宗次の方が下の刃文のまま乱れており、長運斎綱俊は下に比べて穏やかになります。二代と合作する頃の弘化・嘉永・安政時代の作になると刀身の乱れも小さくなり、帽子も直ぐに丸く返るものが多くなります。

2号刀 脇指 銘 長曽祢虎徹入道興里 

(乕徹大鑑より引用)

木戸孝允所持と伝わる折り返し銘の虎徹・ハネ虎であります。

特徴とされる腰元の焼き出しは、磨り上がっていますが僅かに確認できます。

元に焼き出しがあり、起伏のある互の目を焼いています。部分的に箱刃風であったり、瓢箪刃といわれる互の目が二つ連れたような乱れが入っていますので、地刃の冴えなども捉えて虎徹と見ることができます。

通常のハネ虎は、尖り刃や地蔵風の帽子といった美濃風が強くなります。 それに比べると比較的丸みがあって数珠刃に近づいているような刃文であり、沸もムラに付いたりせず均等に付いています。この銘字は寛文二年くらいのもので、寛文四年になるとハコ虎に変わります。

瓢箪刃が見られる末関風の作風から、数珠刃といったハコ虎の作風に近づいてきた頃の作品と見ると、匂い口の明るさや比較的に整った沸などから虎徹と判断できるかと思います。

3号刀 脇指 銘 大和 刕住人九郎三郎重國居駿河州後於紀伊州明光山作之 元和八年戌八月吉日 羽掃 為都筑久太夫氏勝作之
(棟銘) 鑿物天下一池田権助義照

(鉄の芸術近世の名刀24より引用)

元和五年から八年にかけて本作のように彫物が入った入念作が多く見られます。

身幅が広く、重ねも厚く、先反りが強くついていることから慶長新刀と捉えられます。 

南紀重國の特徴として、板目が流れた中に大きな杢が入るといわれています。本作も裏側に板目が流れている所がありますが、彫で確認できません。 但し南紀重國だと思って見ますと、刃の中に杢が入っています。

刃文を見ると下半の方は直刃調の刃文を焼いて、そこに少し小互の目が交ります。上半に行くに従って刃幅が広くなって互の目や丁字足を賑やかに焼いて、金筋や砂流し、沸筋が盛んに入り、沸付きが強いです。そうした所に相州伝の作風がよく出ています。 帽子が焼き詰めている所は大和伝の作風が出ています。こうした相州伝と大和伝を一緒にしたような所に南紀重國の特徴が見られます。

4号刀 太刀 銘 國村

(麗 昭和46年7月27日より引用)

延寿國村は長寸なものが多く、元先の幅差が開いて鋒が詰まった姿になります。鎌倉後期というよりは、少し時代が上がったような姿が多いです。

反りは輪反りとなっていて、後樋ではありますが、棒樋の丸留めが多く見られます。

乱れ映り風の部分や、筋映り風だったり、沸映りなのか関映りなのか判然としない箇所など、非常に色々な映りが立っています。

一見綺麗な鉄ですが、所々肌立っていたり鍛えにムラがありますので、そこが延寿の特色と言えます。

延寿國村は普通長寸でありますが、匂い口がしまった感じの寂しいものが多いです。

今作は小乱れ風の刃文や小互の目なども入っており、足を見ると所謂京逆足が入っています。

来系の足というのは足先がすっと無くなったり、ふわっと拡散する。延寿ですと足の先までしっかり匂い口がある丁字足が入りやすいですが、今作にもそういった所があります。

それから帽子ですが、来國俊であれば小丸がやや深めに返って富士形帽子になります。今作は小丸になって返りが浅くなっています。そうした帽子や鍛えの特徴から延寿と捉えられるかと思います。

5号刀 太刀 銘 國縄

(第19回重要刀剣等図譜より引用)

古伯耆と見るのが素直な見方だと思います。

腰反りが強く元先の幅差がついて、先に少し伏さりごころがあります。

古い太刀姿をしており鍛えは板目が肌立っている。鉄も少し黒味があって、鎬近くに地斑映りが立つ。身幅に比して鎬幅が狭いのは、古伯耆物によく見られます。

刃文は古い時代の小乱れ風の刃を焼いて、刃肌に絡んだような打ちのけやほつれが入っています。

そういった所を捉えれば、安綱と入れるのではないかと思います。

古備前にも相州伝に繋がっていくような、本作のように肌が荒れた古伯耆に近い出来があります。

比較的鉄が綺麗な正恒、それに比べて姿は良いが野趣がある友成、比較的肌立って沸が強かったりする吉包といったように、作風に幅があります。 

古伯耆と古備前を比べると、安綱のような大きな銘に対して鎬幅に収まる銘となっています。今作は焼き落としも無く、比較的匂い口が明るいです。沸付きも古伯耆に比べやや弱くなり、通常焼きが低くなる古伯耆に対して、これは少し高めになっています。

古伯耆は乱れの中に比較的はっきりした小互の目や小丁字が入りますが、本作は小丁字が僅かに入る程度で小乱れとなっています。 以上の点に違いを捉えられるかと思います。


 第1回定例研究会・総会

 令和3年5月22日(土)せきテラスにて、日本美術刀剣保存協会富山県支部事務局、山誠二郎氏に講師としてお越しいただき、第1回定例研究会・総会を開催いたしました。

 

 1号刀 太刀 銘 備州長舩元重


 踏ん張りが抜けている点から磨り上がっていると見て、先に行っても反りが加わっている姿をしているので時代は鎌倉末期と捉えられる。

 通常であればもっと肌立って、流れた肌合いが交じり柾がかったところが交じると一般的に言われるが、この太刀はよく詰んでいるので長舩正系の景光や近景、或いは陰の尖り刃を見て雲類、澄肌系の地鉄や逆がかった刃文も見られるので、青江という札もいい見方だと思います。


 一般的に長舩正系とは違った別系統の刀工で、地鉄は正系に譲るところがあり、角互の目が連れて間が延びた刃文を焼く。そういった特徴が出ている箇所があるので、そこをどう捉えるかだと思います。難しい出来ですので、鎌倉時代の末期頃の備前刀工と見られたらいいと思います。


 2号刀 短刀 銘 藤嶋友重


 藤嶋友重は越前の藤嶋、そして加賀に移って作刀したと伝えられており、地鉄を見ると則重を意識したような大きい杢が入っていて、松皮肌風の肌合いをしています。刃を見ると砂流しがしきりにかかって湯走り状の刃が交じり、太目の金筋が入って非常に覇気のある出来となります。鎌倉時代後期の則重にある、フクラが枯れて内反りになった所謂筍反りに似た感じがありますので、則重という札もありました。

 藤嶋は備前風、美濃風、大和風などの作風が混在するといわれています。一般的には互の目が角ばって角互の目風になり、それが二つ繋がって鬼刃といいますか矢筈風のような刃を焼きます。則重との違いは、この短刀は映りっぽいものが出ていますが、則重にはあまり映りは出ない。則重の松皮肌はもう少し地鉄が肌立つというか、地景が見やすいというか、この作はそれほど太い地景も入っていないので、その辺りが弱いです。

 また、この短刀は寸が延びていますが、則重であればこの身幅ならもっと短くなる可能性があります。茎は刃上がりが強い栗尻になっており加州刀工の特徴となります。加州新刀になると片削ぎの加州茎といわれるように、茎の刃側を削いだ茎になるのでそのきらいが少しあります。


 3号刀 太刀 銘 盛光


 1号刀と比べると先の反りがかなり強くなっています。
 これは磨り上がっていますが、先の反りが深めについているという点と、最も代表的な刃文である腰開きの互の目が焼かれている点、地鉄に杢が交じるというところから應永備前と見ます。
應永備前の刀工には盛光と康光がいますが、どちらかというと盛光の方が華やかと言われています。今作は盛光の特徴である焼きの高低が高い腰開きの互の目を焼いているので、盛光と見ていただきたい。 それと末備前の札もありましたが、若干姿が違います。


 4号刀
 脇指 銘 表 長曽祢興里虎徹入道 裏 同作彫之 寛文元年八月日


 オク里ハネ虎銘と呼ばれる、虎徹でも若い時期の作になり、「興」の字が「奥」に似ていることからオク里銘と呼ばれています。
 寛文四年八月を境に、大小の互の目が連れたような瓢箪刃を焼くハネ虎から、互の目の頭が揃った数珠刃を焼くハコ虎に変わるとされていますが、今作のようにハネ虎の場合でも瓢箪刃になっていないものもあります。
 表が片切刃、裏が鎬造りで大鋒になっている姿は虎徹に割とあり、こうした造りの場合は彫刻が入る割合が高いです。

 そして裏の鎬造りの鎬が柾になっていますので、時代は江戸と捉えたい。

 虎徹と捉えるのはなかなか難しいかもしれませんが、作品的にこういうものがあると覚えていただければと思います。


 5号刀 刀  銘 表 井上和泉守國貞 裏 (菊紋)寛文三年二月日

 真改國貞といわれる井上真改の國貞銘の作品です。

 井上真改は親國貞の子で初め和泉守國貞と切り、万治四年三十歳のときに朝廷から菊紋を賜り菊紋を切ります。彼が四十二歳の時、寛文十二年の八月から真改となります。

 寛文十二年の少し前から沸が深い、通常真改にみられる作風にかわっていくが、最初は親國貞に似た作風を示し、今作も刃取りや、刃幅を広げず真っ直ぐ立ち上がる焼き出しは親國貞によくあるものです。


 拳形の丁子が散見されるので、中河内の札が結構ありました。非常にいい見方だと思いますが、それであれば上に行くに従って刃幅を広げた大坂焼き出しといわれるものになります。

 また姿を見ると寛文新刀の姿をしており、親國貞になるともう少し反りが加わった寛永位の姿になりますので、刃取りで親國貞とみて、姿で寛文となると、今回の真改國貞と言われる國貞の作品と見られるかと思います。



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