令和7年3月22日(土)、近藤支部長に講師をつとめていただき、茜部公民館にて第6回定例研究会を開催いたしました。
1号刀 短刀 銘 則重
身幅、重ね、寸法とも頃合いで浅い内反りの姿は鎌倉時代と見ることができます。
鍛えは明るく冴えていますが、よく見ると大板目に渦巻く肌を交え太い地景が頻りに見えており、これを松皮肌と称しています。
さらに相州伝の刃文を焼いていますが、小湾れを主調に太い金筋が頻りにかかり、ところどころ地刃が判然としない点や、帽子も裏面で激しく掃き掛けるところと、棟の卸が急な点から越中則重の典型作と捉えられます。
本作は薩摩島津家に伝来し、本阿弥光忠の折紙が付くという名刀中の名刀です。
目釘孔が不思議な形をしていますが、これは元々四角の目釘孔があったところに丸の孔をあけた為にこういった形になっています。
古い目釘孔は四角のことがありますが、これはなぜかといいますと元来の釘とは現在のように断面が丸ではなく四角形であり、
目釘も同様に金属製で四角形だったのです。
そしてそれをワッシャ-の役をする装飾座金の上から貫通させていましたが、四角い目釘孔にはこの装飾座金を回転させない効果もありました。その後目釘は丸い竹目釘に、装飾座金は目貫にと変化したため四角い目釘孔は廃っています。
それと台付き鎺が付属していますが、元々台付き鎺は本作のような短刀ではなく刀に使っていました。
というのも例えば徳川家康公の愛刀として有名な助真拵を見ますと台付き鎺が用いられていますが、こちらは鐔に鎺の台の部分が嵌まるように彫り込みがされており、この鐔の彫り込みに台付きの上貝を嵌めて、その上から下貝の台を押さえる形状の切羽を取り付け、そして下貝を取りつけることで切羽を固定する構造になっています。
これは合戦用に太刀拵に入れて使っていた太刀を、普段用の天正拵に入れ替える際に元々ついていた太刀鎺を下貝として用い、それに台付きの上貝を組み合わせて使った台付き鎺の原初の姿です。
そのため現在一般的に見られる二重鎺のように上貝と下貝を組み合わせるための切り込みがありません。
こういった経緯で本来短刀に台付き鎺を使う必要はないのですが、古名刀に倣って台付きにしたものと思われます。
2号刀 刀 銘 村正
刃長二尺一寸八分と幾分寸詰まりで、浅めながらも先反りついた姿から室町後期と捉えたいです。
手持ちが軽いので、戦国時代の片手打ちの様な使い方をしたのだと思います。
本作で目に付くのは表裏の刃文が揃う点にあります。
このような乱れは末関にもありますが、最も顕著に出るのは千子一派で、乱れも箱がかったところや焼幅に高低差があり、谷が刃先に迫り長く浅くのたれる点に村正の特色が良く表れています。
末関の中にも似たようなものがあるかもしれませんが、大抵は美濃映りを伴っており、若狭守氏房ですともう少しガッシリとした安土桃山時代にみられる体配で、谷の焼幅もこれほど細りません。
村正は沸出来のものが多いですが、本作は匂口は締まって匂が深く、村正の中でも出来が良いと思います。
また短刀が多く、刀は珍しいのでよく見ていただければと思います。
3号刀 短刀 銘 兼元
身幅尋常で僅かに内反りかかった姿で鎌倉時代姿に紛れるが、1号刀と比べフクラが枯れているところで戦国時代と捉えられます。
また映りが一面に現れ、末備前や末関にはない鎺元から叢雲のようにうねったところがありますが、こうした映りは赤坂千手院に見られる特徴です。
また数珠のように頭の揃った互の目を連ねるのも赤坂千手院の特徴で、本作の刃文は表裏綺麗に揃った36個の互の目を焼いています。
さらに子細に観察すると下半の互の目が三角形をしており、こうした刃文は兼元に見る手癖ですが、一段と技倆が高いところから孫六と収斂されます。
よく三本杉といわれているのが、三つの尖り刃が低い高い低いのリズムで連れたものだと思いますが、この形の三本杉は後代に多いです。
本来の三本杉は刃を上側にして見た時に尖った足が三本づつ入るところからきています。
※三本杉のバリエ-ションについての資料『試論「三本杉」について』
4号刀 刀 銘 源清麿/嘉永二年八月日
元先の幅差が少なく切先が大きく伸びる姿は南北朝期と慶長期、そして新々刀期が考えられますが、足先が刃先まで深く入っているところから新々刀と見ることが出来ます。清麿のなかでは比較的穏やかな作ですが、先反りが目立ち刃中に金筋や砂流しが頻りに掛かり、帽子が尖って返る点は清麿の教科書通りの出来をしています。
同じ新々刀でも例えば左行秀は直刃調あるいは湾れ調に互の目を交えるものが多く、このように激しい互の目を連ねたものは見ません。
また平信秀は清麿に迫る作を残していますが、彫物を得意としており、大慶直胤はここまで鋒が伸びるものは珍しく兼光を狙ったものが多いです。
そして薩摩刀は俗に芋蔓といわれるように金筋が太く長々と入り、また元平にしても正幸、正清にしても沸づいた尖り刃を交えたものが多いです。
5号刀 短刀 銘 藤嶋友重
藤嶋友重は過去来國俊の門下といわれてきましたが、今では大和系との見方があります。
本作も板目が流れ、互の目が連れて頻りに砂流しかかり、帽子が掃きかける点で尻懸を想わせます。
そして時代的にも大体南北朝時代最末期から室町時代初期ごろといわれていますので、やはり来國俊と直結するところはないとするのが支配的な考えです。
藤嶋は作域が多岐に渡り、これといった特徴がないと言われますが、どこか美濃気質が交じるものがあり、北国ものと見て美濃風であれば藤嶋と考えて良さそうです。
本日一番の難問でしたが、よく見極められてズバリ藤島と当てられた方がお二方ほどおられました。
令和7年1月11日(土)、岐阜キャッスルインにて第5回定例研究会と吉田正也刀匠の寒山賞受賞の顕彰および懇親会を開催いたしました。
研究会には講師として久保恭子先生にお越しいただき、懇親会では毎年行っているビンゴゲームのほか、去年寒山賞を受賞された吉田正也刀匠に岐阜県支部より、近藤支部長製作による受賞作の押形額が贈呈されました。
1号刀 太刀 銘 包永
大和の手搔包永です。
例えば保昌は純然たる柾目を表す流派ですし、 大和の国の刀工は肌が流れ、柾目が特徴だと最初は学ぶはずです。
手搔の包永もとりわけ刃よりの板目が流れるものもありますが、今回のように本当によく詰んだ出来のものもあります。
包永にはこのタイプがありますので、今日はそれを覚えてください。
鎌倉末期ごろの太刀を磨り上げた、腰元で反る姿。
刃縁をよくみると二重刃、金筋、打ちのけといった縦の動きが入っています。
また帽子は掃きかけて焼詰めか若干返るくらいです。例えばこれが来でしたら綺麗に丸く返るか、あるいはちょっと尖ってもしっかり返ります。
それと特に包永は独特の強い沸粒の煌めきがありますので、こういった点で大和の包永と考えられますが、一本入札では難しかったと思います。
余談ですが包永の現存する生ぶ茎の在銘太刀をみると目釘孔の上に銘を切っているので、磨り上げても茎尻付近に二字銘が残ることが多いです。
2号刀 刀 無銘 兼光
無銘ですが、兼光として特別重要刀剣に指定されています。
鎺上の方にヒイラギの葉のようなトゲトゲしい孕み龍の彫りが見えていますので、 この彫りがあれば主に兼光と倫光、大宮の盛景あたりを考えていいと思います。
そのなかで倫光の札が多かったのですが、倫光であれば湾れがもう少し目立ち、あまり角ばった刃はみられません。
もちろん兼光も貞和三年の脇差しくらいから湾れがみられるようになりますが、それでも角ばった刃が入るこのような刀のパターンが多く、純然たる湾れを焼くものはそれほど多くありません。
なので親の景光譲りのあの角ばった刃、そして湾れが混在するような刃を見たら、やはり兼光にご入札されるのが良いと思います。
いずれにしても特徴的な彫り物をしっかり覚えていただければと思います。
3号刀 脇指 銘 武州下原住康重作
下原には平造りで長いこの姿が多いです。
また如輪杢といわれる杢目が連なって3つ入る特徴があり、今回は中央か上の辺りに顕著に出ています。
この姿と肌で下原とみてください。
また刃文が上半と下半で、直刃と互の目というような形で分離しているようなところがあります。
これはいわゆる末物にみる典型的なパターンで、 これも下原に入れたいところです。
なお銘字からすると北条氏康から名前を一字賜って周重から康重に改銘した初代康重とみられます。
それと彫りですが「懸待表裡 長短一味」という柳生新陰流の兵法の中に出てくる相手の動きによって、 自分の身を自由に変えていくということを表した彫りです。
4号刀 刀 銘 賀州住兼若/元和亖年二月日
古刀を狙った作のために、皆さん古刀にみておられました。
完全に南北朝の磨り上げ体配ですが、答えは賀州の兼若です。
こちらは当たりようがないというか、見知りでなくてはもっていきようがない刀です。
賀州刀の中でも例えば清光とかの系統とは違って、いわゆる加賀高平系です。
こちらの関から賀州に移ってシーンを切り開いていった刀工なので、そういった意味でもお持ちしました。
この兼若には元和四年期の銘があり、元和七年には高平に銘が変わりますので、 貴重な初代の賀州兼若の作ということになります。
本当に古刀を一生懸命勉強したという感じの作品で直刃調なので、今回は青江というご意見も多かったです。
小足入ってますけども、鉄の力強さとか、刃縁の感じは私だったら志津のようにもみえます。兼若の初期作としてご覧いただければと思います。
5号刀 近江守法城寺橘正弘
江戸新刀の法城寺正弘です。
棒状で元先の幅差が少なく、いわゆる寛文新刀体配で、樋がなければ本来鎬に柾目がみられると思います。
こちらは直刃調に小互の目を連れるという、法城寺の刃文の典型的なパターンです。
今回は江戸新刀のほか、肥前刀というご意見も多かったです。
肥前刀も直刃で小足が入りますが、やはりここまで反りが少ない肥前刀はなかなかありません。
寛文新刀体配で小互の目が連れて、帽子が虎徹帽子ではなく焼き深く少し小丸に返っている。といったものをみたら法城寺を思い出してください。
令和6年11月9日(土)、岐阜市南部コミュニティーセンターにて日本刀初心者セミナーと第4回定例研究会を開催いたしました。
午前の日本刀初心者セミナーでは実際に刀を手に取り、押形と比べつつ熱心に見ていらっしゃいました。
午後の研究会では株式会社舟山堂より稲留社長に講師としてお越しいただき、今回は美濃の刀剣を中心に5振りの名刀をご用意くださいました。
1号刀 短刀 無銘伝志津
身幅広く、僅かに反り、極端に重ねの薄い姿から南北朝期と捉えられます。
板目に地沸ついて地景がかかる鍛えに、よく沸づいた湾れを主調とし、草の乱れが交じる激しい刃文を焼くところから、正宗門下の誰かという見方ができます。
入札は長谷部国重、金重、左文字ほか、信國、直江志津、廣光と各地に散りましたが、志津で重要刀剣指定を受けておりますので、正宗十哲であれば同然とさせて頂きました。
2号刀 刀 兼元
菖蒲造りという珍しい体配をしていますが、フクラが枯れて僅かに先反りがつくところに戦国時代の時代相が現れており、手持ちが非常に軽く感じるところで孫六の個性が伺えます。
鍛はところどころ柾目がかっており、刃文は頭の丸い互の目を幾つか連ねては尖り刃を一つ高く焼くという繰り返しを見せており、いわゆる三本杉の亜風と見えるものです。
入札はほぼ全員が一の札で当たりでした。
なお兼元でこの造り込みはあと一振り確認されているようです。
3号刀 刀 備州長舩則光/寛正三年八月日
二尺を僅かに超す短い刀姿に先反りがつくのは、末備前の片手打ちに多く見られます。
映りは乱れたところに棒映り風のところが交じっておりますので、祐定よりは少し時代が上がると考えられます。
刃文は腰が開いた互の目丁子を焼いていますが、起伏がありますので先の棒映りと相乗してやや古調に見えたのか、盛光、康光、家助といった應永備前に札が集まりました。
4号刀 刀 濃州関住兼定造
寸は左程詰まっておりませんが、やはり先反りがつく姿から戦国時代の刀姿と見て頂きたいものです。
鍛は板目に流れ肌を交えており、美濃映りが立つ精良な肌合いです。
刃文はむっくりとした丸みを帯びる互の目丁子を焼き、起伏のあるところから末関と捉えられますが、技倆が一段と高い点から素直に兼定と見られます。
入札は兼定、兼房、兼則の三工に集中しましたが、これほどの出来を示すのはやはり兼定に絞っていいのではないでしょうか。
ちなみにこの銘振りは兼㝎改名前の、いわゆる若打ちであります。
5号刀 脇指 兼次
平造で大きく寸が伸び、先反りが強い姿から戦国時代の脇指と捉えられます。
刃文に沸出来の激しい皆焼を焼いており、焼が深いところから一の札では末相州、中でも綱廣観が多くありました。
しかし二の札では美濃に修正されており大変結構でした。
令和6年9月14日(土)、せきてらすにて日本刀初心者セミナーと第3回定例研究会を開催いたしました。
午前には当支部主催の日本刀初心者セミナーを行い、多くの若い方にご参加いただきました。
午後の研究会では講師として当支部の若原副支部長に講師をつとめていただき、今回は初心者の方も体験参加されているということで、いつも以上に分かりやすく解説いただきました。
1号刀 刀 銘 濃州関住兼常作/天文六年八月吉日
この刀姿は時代が極めにくいものですが、先反りの付いた姿から室町末期と考えるのが自然です。
鎬がやや高く、鍛えは板目に杢交えて肌立ち気味に流れ、明瞭な焼出し映りから幽かな乱れ映りに変化します。
このような映りは美濃物に見られ、腰刃を焼いているところも美濃と見極める大きな見所です。
兼常は代々家伝の直刃を墨守しておりますが、この刀は南北朝期の志津を彷彿させる刃文を焼いています。
作風から兼常と認めるだけの特徴は見出せず個銘当たりは難しいことから末関と見られれば結構ですが、孫六に関してはこのような刃文はありませんので注意を要します。
なお末関に湾れ刃が流行するのは、もう少し時代の下った氏房や大道あたりからですが、本作はその嚆矢といえるものであり、この二工に入れられた方は大変結構でした。
ただし大道の場合はもう少し大振りとなり、慶長新刀に近い刀姿で鋒も大きく伸びるものが多いです。
2号刀 脇指 銘 於南紀重國造之
身幅が広く元幅と先幅のひらきが目立たず、かつやや寸がつまり、重ねが厚いことから慶長新刀と捉えることが出来ます。
また鎬が高く、中沸出来の中直刃を焼き、帽子は直ぐに先小丸となり、返りはごく浅いことから、所謂手掻写しと見て頂きたいと思います。
重國の作風には、本作のような大和手掻包永に私淑した直刃の出来と相州上工、就中、江に私淑したと思われる乱れ刃の両様があります。
この脇差は重ねが厚く平肉がついてズッシリとしています。
新刀期の直刃と見て、肥前刀との見方もございましたが、肥前刀ならば、通常小板目が詰んだいわゆる米糠肌の鍛えに、刃文は沸の付きようが毛糸を見るようなと形容され、帽子は来の如く直ぐに小丸に返ります。
また重國の匂い口の明るさは虎徹や助廣に匹敵すると言われておりますが、これは徳川家康や紀州公に仕えて、最良の玉鋼が入手できたからだと思われます。
3号刀 太刀 銘 備中國住次吉
磨り上げているために踏張りが抜けていますが、元先の幅差が目立たず、中切先が伸びていることから南北朝期の太刀姿と捉えられます。
鍛えは、小板目が詰んで艶があり、刃文は直刃調で匂口が締まり、僅かに逆がかった足を交え、ささやかな二重刃が掛かるなど、青江の特徴が見て取れます。
青江物は縮緬肌とイメージされていると思われますが、鎌倉末期から南北朝にかけては、本作のようによく詰んで比較的綺麗な肌が見られます。
また、青江物は鎌倉時代には沸出来ですが、南北朝時代になると匂出来になります。
本作は青江次吉の太刀ですが、南北朝期の青江の刀工と見て頂ければ結構です。
強いて言えば、次直は逆丁子が得意であり、直刃は次吉に多く見られます。
直刃調で逆足が見られることから、備前の雲次、雲重などの見方もありましたが、雲類ならば独特の地斑映りがあらわれ、たいがいが肌立ってくるものです。
4号刀 短刀 銘 弘幸
身幅が広く寸延び、僅かに反りのついた体配より時代を慶長新刀期のものと捉えることが出来ます。
鍛えは、板目に杢交えて流れ、刃文は浅く湾れがかった細直刃を焼いています。
慶長期において短刀で直刃を得意としているのは、肥前忠吉、尾張の政常、平安城弘幸などが挙げられます。
忠吉ならば、肥前刀特有の米糠肌か来写しの古調な肌で、刃文は中直刃となり、姿は内反りか無反りが大半を占めます。
また、政常も中直刃となり、反りは殆ど見られません。
消去法でいくと残った弘幸の刃文は、目立って刃幅の低い小沸づいた細直刃を焼くことから本作と合致し、弘幸と導かれます。
彼は現存する作が少なく、鎬造の刀よりも平造の短刀、小脇指が多い作者です。
また帽子は本作のような直ぐに小丸や浅く湾れ込み小丸などが見られます。
弘幸は堀川國廣門下とされていますが、この堀川物の鍛えをさしてザングリという表現が使われます。
ザングリという言葉は、現代では鍛えが細かく詰まらず、地肌がよく現れ、荒れ気味に見えるというような表現がされますが、本作の弘幸にはそのような鍛えは見られません。
したがって堀川物だからザングリとした鍛えと覚えないように、一振り毎によくその鍛えを見て頂きたいと思います。
5号刀 刀 銘 相州住廣次
姿は、鎬幅がやや広く鎬を卸しています。これらは戦国時代の皆焼を焼く作に限られる姿であり、敢えて大和伝の特徴である鎬が高いという表現とは区別して鎬を卸すとか、盗むとかいわれます。
室町時代の皆焼刃は、末相州のほか、末備前にみられます。
本作は、末相州によくみられる巧みな彫りがありませんが、末備前の皆焼は腰開き互の目を基調としているのに対し、末相州の皆焼は谷底が直ぐ調であることから、末相州と導かれます。
末相州には、綱廣を代表とする鎌倉相州鍛冶と総宗、康國等の小田原相州鍛冶があります。廣次は鎌倉相州鍛冶にあたりますが、同工と認めるだけの特徴は見出せず個銘当たりは難しいことから、末相州と見て頂ければ結構です。
本作は、刻銘の相の右側が月のように切られていることから明應頃の作と思われ、表裏で刃文の違う児の手柏(このてがしわ)風を焼いており、匂口が締まり沸は明るく冴え、出来の良いものです。
令和6年7月13日(土)、公益財団法人日本美術刀剣保存協会より石井彰学芸部長に講師としてお越しいただき、岐阜市南部コミュニティセンターにて第2回定例研究会を開催しました。
1号刀 刀 銘 津田越前守助廣/延寶九年八月日
2号刀 刀 銘 武蔵大掾藤原是一
3号刀 刀 銘 備前國住長舩与三左衛門尉祐定作/天文二年二月日
4号刀 短刀 銘 清磨
5号刀 刀 銘 近江大掾藤原忠廣/肥前國住陸奥守忠吉
令和6年5月25日、関市文化会館にて午前は日本刀初心者セミナー、午後からは第1回定例研究会および総会を開催し、研究会には富山県支部より山誠二郎氏に講師としてお越しいただきました。
日本刀初心者セミナーでは日本刀のあらましの説明に始まり、鑑賞時の取り扱い方とマナー講習の後、実際に鑑賞いただきました。
1号刀 刀 銘 和泉守藤原國貞
親國貞は初代河内守國助と共に大坂新刀の草分け的な存在として知られています。今回は親國貞だけではなく國儔の入札もありました。
親國貞は堀川一門で國廣晩年の頃の弟子とされていますが、実際には同門の越後守國儔が事実上の師匠と思われ、本作も兼㝎に範を取ったと考えられる國儔に似た出来を示しています。
寛永頃の姿をしており、新刀と見て美濃の兼㝎に似ているなと思ったら國儔に入れてもらっていいかと思います。
ただ指し表の帽子に飛び焼きが入っていますが、三ツ頭の所に飛び焼きが入るというのが親國貞の特徴の一つです。また、棟焼きが入っているところも國儔と國貞の違いです。
國貞は元和九年五月に和泉守を受領しますが、本作は銘振りから寛永三年頃といわれています。
2号刀 短刀 銘 備前國住長舩与三左衛門尉祐定/天文十年八月日
末備前の刀工の特徴が如実に現れた出来口を示しています。
本作は皆焼風の刃を焼いており、室町時代末期頃でいうと末相州、末備前、島田、村正、宇多、冬廣、廣賀、平高田などが皆焼を焼く刀工として挙げられます。
姿を見ると寸が短くて重ねが非常に厚いです。また先にいって急に細くなる形状も末物の特徴です。
板目肌が詰んで荒れたところもなく、非常に冴えた鉄ですので、末備前の中でも技倆の高い祐定、なかんずく与三左衛門と見ていただければと思います。
末備前の刀工では清光であれば直刃、勝光ですと丁字を得意としていますので、腰開き互の目に複式互の目といわれるような刃が交った本作の場合は祐定と見たほうが良いです。
3号刀 脇指 銘 水心子正秀/天明六年八月日
皆さん悩まれたようで、虎徹や大坂新刀の札がありました。
新々刀では無地風といって肌模様が見えないような地肌が特徴ですが、本作は大坂新刀に見紛うような地肌をしております。水心子正秀は大坂新刀写しの場合には板目が詰んだ肌が出るのが特徴というのを覚えていただければと思います。
鎬幅の狭いところや平肉がついていないところで新々刀と見ることもできますが、非常によくできていますので本歌の大坂新刀であったり、瓢箪刃のような刃も見えましたので虎徹といった札にいかれたのだと思います。
姿以外で水心子正秀といきたい点は、腰元の乱れについた荒い沸が地にこぼれるようについているところです。こうした特徴は助廣などには見られません。
4号刀 刀 銘 出羽國大慶庄司直胤(花押)/文化十一年仲春 腰車土壇拂太田良蔵試之
身幅が広く鋒が延びごころになって手持ちが重いです。映りも出ていますから、南北朝の兼光あたりの写しだと思われます。
磨り上げであれば腰元の踏ん張りが抜ける筈ですが、本作は踏ん張りが残っており、樋が腰元で丸留め、地肌も無地風となっていますので総合的に見て新々刀と考えることができます。
直胤は細川正義と共に師である水心子正秀が提唱した復古造法論を実践しました。
五ヶ伝全ての作刀をしましたが、備前伝と相州伝が上手といわれています。文化、文政年間に備前伝の作例が多く、逆がかった刃や角互の目が連れた兼光写しをよく焼いています。
淡い飛焼が入ったような焼け映りと呼ばれる直胤特有の映りが立っており、刃中の足が刃先に抜けていくといわれますが、本作にもそれが確認できます。
また腰元の刃がうるむというのも、水心子一門の特徴とされています。
5号刀 刀 銘 於東都近藤景保依好 尾陽住固山宗次作之/天保六未八月 於千住二ツ胴截断 伊賀乗重
身幅が広く、元先の幅差がややつき、重ねが厚く、反り浅めで、中切先延びる姿から新々刀と捉えることができます。
そして固山宗次は匂勝ちの丁字などの乱れ刃を三、四寸の間隔で同じパターンの刃取りを繰り返すというのが特徴で、本作では意識して探すとそういった箇所が見て取れます。
また同じ新々刀備前伝の4号刀直胤との違いは、刃文が逆がからない点です。
砂流しがかかっているので清麿や栗原信秀の札もありました。清麿であればフクラが鋭利な姿となり、もっと沸づきます。刃文も馬の歯形と呼ばれる乱れ刃になりますので、本作の刃文とは違います。
なお固山宗次は加藤綱英の弟子といわれていますが、実際には長運斎綱俊の影響が大きいものと思われます。